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第二次世界大戦

 先日『Exodus』という映画を見た。この頃の映画はやたらCG技術を駆使した見せ場を売り物にしている。この作品もその例に漏れず、ナイル川が血に染まり大量の魚が浮いたり、ハエやイナゴや蛙の大量発生する場面など、いわゆる「10の災い」の部分は、ちょっとしつこいな。

それにしても、モーゼと名付けられた人は実に謎めいた人だ。ユダヤ人にとってのキイパーソンの出生を『聖書』はどうしてあのように描いたのだろう。…そしてユダヤ人というと、どうしても世界大戦を連想してしまう。ところで、小生は以前から第二次世界大戦という言葉に違和感を感じていたので、それをちょっと話したい。

 とくに外国人がWorld War 2 で日本がどうしたのこうしたのと言うのを聞くと、どうもちょっと変な感じがする。たしかにあの時、1940年代に世界の文明国が同時に戦争に参加していたし、名目上は日独伊三国同盟を結んでいた。しかし、日本はアジア・太平洋で、蒋介石軍と英蘭などと、後に主にアメリカと戦ったのであって、正しくは大東亜戦争、四捨五入して太平洋戦争と言ったほうがピンとくる。

 西尾幹二氏が書いていたが、大東亜戦争とヨーロッパの戦争とは意味が違う、前者はアジアの領土と資源をめぐっての争いで、ざっくり言えば、日本とアメリカの、国家のエゴイズムがぶつかりあったのだ。しかしドイツを中心とした戦いはキリスト教文明圏の内戦なのであって、だからあのおぞましいジェノサイド(ユダ人大虐殺)は、われわれ日本人には理解できないものだ、と。

 つまり、日米の戦争は、もっぱら領土・資源の奪い合いのための戦争であって、たしかにじつに多くの兵士が悲惨な死に方をしたし、かつまた多くのとばっちりを諸国に与えたりもした。しかし、本質的には、欲と欲のぶつかる喧嘩であって、誤解を恐れずに言えば、男らしい明るい戦争であって、終わってみれば、互いの兵士が「あの時はお互いよく頑張ったな」と言いあえるのだ。

 ところが、ドイツの戦争には、もちろん領土問題もその発端にはあるだろうけれど、彼らの戦争の本質にはもっと深いくて暗いもの、けっしてぬぐい去れないスティグマがどこかに残っている。敗戦国のドイツと日本は、戦勝国から悪者としての烙印を押され、謝罪と賠償とを科せられた。負けたからにはそれはしようがないとして、しかし、ドイツと日本は、謝罪するにしても意味がちがうはずである。戦争犯罪と言っても、同日の談にあるはずがない。というよりジェノサイドは戦争犯罪なのか。

 あるとき小生は、ふとヒトラーはイエスの生まれ変わりではあるまいかという考えが頭をよぎって、慄然としたことがある。十字架にかけられたイエスが1900年の時を経て、ユダヤ人を殲滅しようとしたのだと。あのエホバの神なら大いにありそうだ。あの福音書家らは口を揃えて、イエスを十字架に架けたのはユダヤ人たちだと語る。福音書を読めば読むほど、冷静な周囲のだれが見ても無実の、〈イエスを十字架に架けろ、イエスを十字架に架けろ〉というユダヤ人たちの熱狂した叫びが大きく聞こえてきて、使徒たちの言いたいことは、じつにこの一点にあるのではないかとさえ思えてくる。

 まさかイエスがユダヤ人に復讐をするなんて、と人は言うかもしれない。しかし、たとえば個人としての人はみな幼年期のトラウマあるいは広く影響が、成人してからも癖や行動の傾向として現れ、イヤでも矯正しようもなく生涯続くように、一民族もその幼年期に受けた傷はいわば無意識の底を流れ、のちに否応なく発現してくるのではないか、と言いたいのである。

 いまだに〈ユダヤ人の物語〉が現実に厄介な問題を引き起こしていることを思うべし。また、海に囲まれた土地に生きてきたわれわれ日本人が現在、世界的に独特な性格を形成してきたことを思うべし。だからこそ、じつはわれわれ日本人はわれわれ独特の仕方で戦争をしたのだし、戦後も独特の生き方をしている。

 そういうことで、第二次世界大戦という語で、西洋と東洋の戦争を一括して、語ることはできないという視点もあるということ。そして今更ながら、何事においても名称はあることを語るのに便利ではあるが、同時にあることを隠すことにも便利である、と気付いた次第。



     


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『土佐日記』

なにとなく春になりぬときく日より
   心にかかる瀬戸の船旅…ってことで、

『土佐日記』と聞けば、土佐から京への、光のどけき春の日の旅路を綴った随想だと思っていたが、それは小生の思い違いだった。

 作者(紀貫之)は、数年間、土佐守としての任務を終え、承平4年(934年)12月21日、帰京すべく任地を去る。京へ着いたのは、翌年の2月16日。その約三カ月間、貫之ら一行の旅のほとんどは船旅であった。土佐の港から室戸岬を回って、今の徳島市、そして鳴門海峡を横切って、淡路島、和歌山、難波津から淀川を遡って京都へ。

 驚くべきことに、寒い時期の船旅であるにもかかわらず、寒いという言葉がない。もちろん航海は沿岸伝いで、所どころで寄港する。海が荒れて、船を出せない日も多々あって、予定通り進まない。

 また航海は、とくに土佐の港から淡路までは夜間が多い。一つの理由として明るい間は海賊がよく出るからという。しかし、今のように村には明かりがないだろうに、月明かりと星を頼りに航行したのだろう。鳴門海峡を渡る時も、海賊に見つからないように、夜間決行である。船中の皆は神仏に祈る。それにしても渦に巻き込まれることはなかったのだろうか。

 一行は一刻も早く京に帰りたい一心である。船中のつれづれに、男は酒を飲んだり漢詩を作ったり、女や子供は歌を詠んだりしている。

 たまくしげ箱のうらなみ立たぬ日は
     海を鏡とたれか見ざらむ


 昔も今も海が凪いでいるときは、海面が鏡のようだと誰もが言う。

 いよいよ難波に近づく、「住吉のわたりを漕ぎゆく。ある人のよめる歌、

 今見てぞ身をば知りぬる住江(すみのえ)の
     松より先にわれは経にけり


 久しぶりに見る住吉の松は千年の緑を湛えているが、私は、数年で歳をとってしまったことよ。

 洗練された都人である貫之から見て、船長は鄙びていて下品な人間であることが強調されているし、また船中には、土佐の地で出産したが、その子を亡くして、帰京の途についた女性(貫之の妻らしい)もいて、しばしば同乗者はその女性の悲しみに触れる。

 この悲嘆にくれる母は、住吉あたりでこう詠う、

 住江に船さし寄せよ忘れ草
     しるしありやと摘みてゆくべく


 住吉の岸辺に船を寄せよ、あの子のことを忘れる効きめがあるなら、それを摘んでいきたいから。

 そして作者は、この母が悲しさに堪えずして歌を詠むにつけ、こんな風にも語っている。「父もこれを聞いて、どんなに心を痛めているであろう。泣いたり、歌を詠ったりするのも、好きだからと言ってできるものではないだろう。唐土(もろこし)でもここ(わが国)でも、思うことに堪えられない時こそ、歌が生まれるのであろう…。」

 漢詩に堪能で『古今集』仮名序執筆者としての面目躍如


     


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バリ島に行く3

Iとの付き合いは、17歳くらいから26歳くらいまでの約10年間くらいだ。この多感ないわゆる青春時代に、小生はIを尊敬し、またIからもっとも影響を受けた。高校時代、一度として同じクラスではなかったように思う。どうして彼と知り合うようになったのか分からない。彼は早熟だった。おそらく彼から見ると小生は幼稚なおぼっちゃんに見えたであろう。家の遠い彼は下宿をしていた。われわれ数人の〈仲間〉は時々彼の下宿に行った。彼の部屋の本棚には「漱石全集」をはじめ多くの文学や哲学の本が並んでいた。

 彼は修学旅行には行かなかった。おそらく急病を装って、旅行の積立金を返してもらい、そのお金で本を買った。たぶん「折口信夫全集」だったと思う。キルケゴールという名を小生に教えてくれたのもそのころだ。そんなことで彼は非常な読書家であった。彼と一緒に他の仲間の家に行って、ビートルズやジャズのレコードをよく聴いた。深夜スーパーマーケットに忍び込んで盗んだガムを食べながら川の堤に座って、朝やけの空を眺めたこともあった。いつの間にか、われわれは彼をリーダーと呼んでいた。

小生がIを尊敬していたのは、彼が読書家で勉強がよくできたからではない。彼は繊細というのか、他人にたいして非常に細やかな心をもっていたからだ。一番強く印象に残っているのは、彼と小生と小生の友人Sと三人で、当時小生の一番の親友Oの家を訪ねた時のことだ。Oは、事情はよく解らなかったが、両親と別居していた。お祖母さんが彼の面倒をみていた。そのお祖母さんはとても歳をとっているように見えた。

そのお祖母さんが、Oの友達が訪ねて来てくれたということで、カレーライスを作ってくれた。それが、部屋や台所の状況とともに、見た眼にとても汚らしく、とても食べる気がしなかった。お腹もじっさいそんなに空いていなかったのかもしれない。ふだんからきれい好きのSはほとんど口をつけなかった。小生は、せっかくお祖母さんが出してくれたのだから食べなければと思いつつも、どうしても半分くらいしか咽を通らなかった。しかし、Iは頑張って全部食べた。小生には、それがOとお祖母さんの気持ちを察して無理して食べたことが、よく解ったのだ。小生は自分の無力を恥じた

そういえば、その後いつだったか29年間フィリピンで一人奮戦していた小野田少尉の帰国のことを話題にしたことがあった。小生が「うーん、29年間か・・・」とつぶやいたとき、Iは期間の長さは問題ではないと言った。小生は自分が解っていないことに気付かされた。

みなで、誰かの失態をからかったりしていると、Iは「だれでもそんなことをするではないか」と、われわれをたしなめることもあった。そういうとき、われわれはハッとして、彼を良心の権化のように感じるのだった。

Iは高校を卒業して上京した。彼の口癖は東大でなければ大学に行かない、であった。文化系の科目は抜群だった、だけど、彼は数学が非常に苦手であった。当然、東大は落ちた。慶応や早稲田なら、居眠り半分でも合格できたであろうに。しかし、両親をうまく誤魔化して、大学か予備校に通っているような振りをし、仕送りをせしめていたようだった。今から思うに、彼はハナから大学など行く気はなかったのだ。万一、東大に入っても、半年か一年かで退学していたのではなかろうか。彼が、まともに授業に出席し、試験をうけている姿は想像できない。ましてや、就職して長く仕事を続けるなんてことは考えられない。そのころすでに彼は周囲にたいして不安を抱かせる人物であった。以来、彼は二度と故郷の地に足を踏み入れることはなかった。

小生も上京した。中ぐらいの理系頭の小生は浪人して医大に入った。そのころIとはあまり会わなかったが、あるときIとAと小生はいっしょに、映画「冒険者たち」を見に行った。終わりのほうで、いい者である主人公らを悪い奴らが襲ってくる、いい者の一人は殺される、しかしもう一方が、うまく悪漢らを次々にやっつける、というシーンがあった。その時、Iは手を打ち、喜びの声を上げつづけた。彼のその無邪気さに小生は深く感銘をうけた。

しばらくの後、またわれわれはよく付き合うようになった。彼は、サングラスをし、かっこいい裾の広がったジーパンを穿いていた。青山のなんとかという店で買ったのだという。しかし、どうも気に入らない部分があるから直しに行く、一緒に行こうと言った。そのときの彼の恥ずかしそうな顔を思い出す。彼は何をして生きているのであろう、どこかでバイトでもしているのであろうか、小生はいぶかったが、なぜかそのようなことを訊ねたことはない。

ある時、音楽狂であった小生が、彼にモーツァルトのピアノ協奏曲no.17を聴かせて感想を求めた。彼は「これは丸と三角だ」と答えた。その時、小生は嬉しかった、その意味が判ったからである。当時彼がよく聴いていた音楽はロックであった。何回か二人で、小生のマンションで徹夜で音楽を聴きまくり、踊りまくった。彼は「ニーチェが音楽は個体解体の原理だというのは本当だ」と言った。ピンクフロイド、レッドツェッペリン、ディープパープル、バルトーク、ベートーヴェン、ストラヴィンスキー、長唄、能楽囃子、・・・そして夜が明けてくると、決まって『フィガロの結婚』の伯爵夫人のアリアで締めくくった。彼は言った「これは天上の音楽だ」と。ときにマリファナをもってきてくれた。

あるとき彼は小生に本をくれた、「les deux sources de la morale et de la religion」これ、彼は原文で全部読んだとは思わないが、後に邦訳本は小生の愛読書となった。今なお我が手元にあるこの原書は、唯一彼の手垢が付いたものだ。これも小生の棺桶に入れてもらうことにしよう。

26歳くらいの時には、われわれはもう別々の夢に捉えられていた。別れる時がきたのである。彼はきっと小生の凡庸な人生を見限ったのだろう。しかし、小生の彼への敬愛の念は決して消えることがなかった。そしていつかまた会えると信じていた。

数年前Aから、Iはバリ島で死んだと聞いたとき、驚きと同時に、やっぱりそうかと思った。と同時に、もう彼に二度と会えない無念さが心を圧した。若い日のIの写真を見て苦しくなるばかりだ。Iのような男は、この世ではとても生きにくかったに違いない。彼の繊細な魂は、たとえば学校や病院や介護施設などのホスピタリティの限界というか、この世のあらゆる制度の必至の欺瞞には耐えられなかったと思われる。近代の画家や詩人の中には人里離れた地に逃避した者がいたが、彼らには絵画や詩があった。Iには何があったのだろう。文学で若年期をスタートした彼は一編の詩も残さなかったのであろうか。彼の晩年に親しかった人に訊いてみたい。

         *

帰り、シンガポールを深夜一時過ぎ離陸した飛行機は、4時ごろまで、機内を暗くしてくれている。そのあいだ窓外に目を凝らすと、大小の星星がぎっしりとひしめいているのが見えた。そして思った、今この瞬間に新しく生まれている星もあろうし、消滅している星もあろう。消滅した星は散り散りになって、また新しい星の素材になる。星は新たな神話の素材になり、新たな人たちはその神話を生きる。その人たちの生もまたたく間に過ぎ去ってゆく。何に対して? 
すべては次々に思い出となって、そして自分だけが〈今ここ〉に居る。


     

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バリ島に行く2

このバリ島のカンプン・カフェは、当初Aと一緒に来たいと思っていた。しかし、Aは以前に、まだIが生きていたころ訪れたことがあるし(だからAはここでのIの写真をもっていたのだった)、それにたまたまAも重病の治療中で、かつまた最後の仕事が忙しい時期でもあったので、小生はふと妻を連れて行くことに決めた。なぜなら妻が行きたがっていたから。思い返せば、妻と海外旅行というのは、結婚して間もなく一度したきりだ。その後、海外と言うはおろか国内旅行もまともにしたことがない。死ぬまでに一度くらい、お礼と言うか何と言うか、まあそういう意味で、一緒に海外旅行をするチャンスでもある。一石二鳥とはこのことではないか。

それで、次の日は遺跡や美術館を廻りながら、南の海辺のリゾート地ヌサドゥアにある広大なホテルへ。そこで二泊。この間に非常に心に残った二つのもの。一つはアルマ美術館で見たヴァルター・シュピース(Walter Spies)の絵。強いて言えば、アンリ・ルソーの発見したところをシャガールの自由さをもって描く。このドイツ人は非常に多才な人であり、バリ芸術の立役者であったそうだ。そもそもバリ島の民芸が芸術として発展してきたのは20世紀に入ってからである。それにはシュピースはじめ外国人の尽力が大きい。

ヴァルター・シュピース
   wikipedia

それからもう一つは、断崖に立つウルワト寺院。バリ島は至る所に大小の寺院がある。ふつうの民家にも門前に魔よけのヒンズー神を立て、庭には先祖供養の石塔をいくつも立てているので、広い敷地の民家は小さな寺院と区別がつかない。ところでこのウルワト寺院は、べつに寺院がどうのってものではなくそれが立つ断崖絶壁がすごい。見下ろすと波寄せる海の水の色があまりに鮮明で美しい。その敷地の傍らには円形劇場があり、そこで海に沈む夕日を背景に50人くらいの男たちが叫びながら踊る(ケッチャクダンス)。そこへインドから伝わった物語を舞う洗練されたバリ舞踊が加わる。

ウルワト寺院5 ウルワト寺院4


ウルワト寺院ダンス3



ロケーションがよい。インド洋に沈む夕日、シルエットに浮かぶ寺院、たえず漂う香の薫り、半裸の男たちの呪術的な叫び、あざやかな色彩と繊細な動きの舞踊。これらが混然一体になって、観客を陶酔の境地に陥らせる。このまさに〈総合芸術〉も最近になって政府の後押しで生みだされたものであるという。かつて見たエーゲ海の断崖に立つポセイドン神殿も円形劇場も、今は廃墟である。しかし、このウルワト寺院はまさにいま芸術祭のメッカとして胎動している。インドネシア政府は、よきにつけあしきにつけ、バリ島を一大観光地として、バックアップしているそうだ。日本人観光客は減少しつつあるらしいが、代わって急増しているのは中国人だ。まあどこでも観光地はどんな人たちでもOK。気前のよい金持さんなら熱烈歓迎。

 大きなホテルの複雑に入り組んだプールで久々に泳いだ。生まれて初めて南半球の海に浮いた。しかし、バリ島に来て以来、頭から去らないのはIのことだ。「どうして君はこの様な地に渡ったのだ。どうして死んだのだ。」なんども頭の中でそう問うてみた。そして、彼のことをできるだけ詳細に思いだそうと努めた。


     

     

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バリ島に行く1

バリ島に行った。南国リゾートでリッチな休日をというのではなく、第一の目的は旧友の墓参りに行ったのだ。とはいっても、そこに彼の墓があるわけではない。死ぬまでにどうしても彼の晩年の縁の地を訪れたかったからだ。

 旧友Iの死は、三年ほど前に、共通の友人Aから聞いた。とてもショックだった。なぜならIは小生が高校時代に知り合って以来もっとも尊敬をし、影響をうけた友であったからだ。26歳くらいからもうずっと会っていないが、またかならず会えると思っていた。それがもう叶わぬこととなってしまったという思いは、日ごとに強くなって、せめて墓参りはしようと一年くらい前から考えていた。

日ごろ腰が重い小生も、もう今しかないという思いに駆り立てられて、パスポートを取り、旅行代理店に走った。目的の場所は、バリ島の中部の町ウブドという有名な、とは言っても小生は初めて知ったのだが、のはずれにあるカフェである。

 Aの語る所はこうであった。Iは、Iの連れ合いの出資によってなったそのカフェ(レストラン)で、現地の仲間であるマデ君とともに働いていた。しかし、Iは連れ合いと別れてしまい、(連れ合いは撤退し?)Iは現地に残った。ある日、Iは酒酔い運転でバイクを飛ばし、標識の柱ぶつかって亡くなった。この話をAから聞いたとき、小生はとっさに、Iは自殺したのだと思った。

バリ島の空港に着くと、予約通りルックJTBの現地のガイドが迎えに来てくれていた。そこからウブドのホテルに直行し、明日の行動の予約をした。明くる日、まずタマン・アユン寺院を訪れてから、Iの縁のカフェに行く。そこは有名な観光地になっているライステラス(棚田)のすぐ傍らにあった。

名はカンプン・カフェ。ここがIの終の棲家であったのか・・・。見晴らしはすこぶるよい。棚田の間に散在するヤシの木、向こう側はジャングル。カフェや小さなプール付きのコテッジ。多くの店が増える10年くらい前までは、このカフェは観光客が必ず寄る店であったらしい。ガイドブックにも載っているし、現地の人はだれでも知っている。

カンプンカフェ1



われわれが着いたときには、残念ながら店長のマデさんは外出中でいなかったが、スタッフの二人はIを知っていた。あらかじめAにもらったIの現地での写真をもっていったのがよかった。スタッフはこの写真を見て懐かしそうに喜んでくれた。JTBのガイドにスタッフからの話を通訳してもらったが、彼の日本語は不十分でよく判らなかった。今にして思うと、スタッフから英語で直接聞いた方がよかったような気がする。なんでもIはここに住み着く決心をしたらしく、マデさんの養子になったそうだ。Iよりマデさんのほうがだいぶん年下なのだが…。Iは大の飲酒家であり肝臓を患っていた。このカフェには大きな犬(レトリバー?)がいたが、スタッフによるとIにずいぶん懐いていたそうだ。小生は犬にIの写っている写真を見せたが、判ってくれたかどうか…。

カンプンカフェ2


ここでわれわれはランチを取り、時間が来たので帰りの車に乗ろうとしたその時、そこへちょうどマデさんが帰って来たことをスタッフが告げてくれた。小生はマデさんに自己紹介をし、写真を見せた。マデさんは「懐かしいなー」と日本語で言った。Iといっしょに写っている女の子は自分の娘で今17歳になっているとも。とにかく店の前で一緒に写真を撮った。そのとき犬が小生の脚を前足で何度も強くなでてくれた。その感触が忘れられない。お互いに急いでいたので、ゆっくり話をすることができなかったのが心残りだ。手紙を書いて、もっとIの事をくわしく訊こうと思う。

カンプンカフェ3


その日は、その後で美術館とウブド王宮での民族舞踊を鑑賞した。いつもながら、あれもこれもと欲張ったあげく、結局すべてが中途半端になってしまう。死ぬまで悪癖は直らないものだ。



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Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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