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山背大兄王

山背大兄王(やましろのおおえおう)は聖徳太子の息子さんです。推古天皇の後継者の一人として目されていましたが、蘇我氏の擁立した田村皇子が皇位に着きます(舒明天皇)。

 その12年後、舒明天皇が崩御されますと、三人の有力な後継者候補がありました。山背大兄王と古人皇子(ふるひとのみこ)と、それから大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)でした。

 蘇我蝦夷・入鹿親子は、山背大兄王を決して皇位につけたくない、中大兄皇子もできればつけたくない、蝦夷の甥にあたる古人皇子をつけさせたいが、反発も大きそうだし、中大兄皇子を差し置いて皇位につけるのは難しそうだと考え、とりあえず、舒明天皇の皇后に天皇の位を授けた(皇極天皇)。

 この御代に至って、蝦夷・入鹿の専横がめだってきます。あまりの振る舞いに、あるとき舂米(つきしね)女王が「天皇でないお前らが、どうして勝手に政を行おうとするのだ」と注意するのです。この舂米女王は聖徳太子の娘さんで、山背大兄王の異母妹でもあり、奥さんでもあるのです。

 聖徳太子には4人の妻がありました。その中で、太子がもっとも寵愛し、多くの子をなしたのが、膳(かしわで)さんという比較的身分の低い出の妻でした。この膳さんが太子の最後まで、まあ生活を共にしたのです。おそらく、あの理想家の太子の心にもっとも適った女性だったのではないでしょうか。そして、舂米女王はこの膳夫人の長女なのです。

 どうも彼女は、幼いころから父の理念を受け継ぎ、自分がいわば宗教的太子一家を支えていかねばという思いが強かったのではないでしょうか。そして夫の山背大兄王は、やはり父の影響を受けすぎと言えるほどで、むしろこちらは仏教的無抵抗を徹底させる人だったのです。性格の強い彼女が蘇我氏の横暴をたしなめたのでした。

 皇極二年10月、突然「蘇我入鹿はこっそり策謀して、山背大兄王一家を滅ぼして、古人皇子を天皇にしようとした。そのころ、こんなわらべ歌が流行った、〈岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁〉 蘇我臣入鹿は、山背大兄王一族の威光が天下に行き渡ってるのが気に食わなくて、自分が君主になろうとした。」という記述が『日本書紀』に出てきます。

 この山背大兄王一族というのは、上宮王達(かみつみやのおうたち)と書いてあるのですが、すなわち斑鳩宮(今の法隆寺東院あたり)に住んでいる人たち、すなわち聖徳太子一族なのですね。雰囲気としては、どうもこのころ、聖徳太子は伝説化されつつ、かつその教えは一般の人々に行き渡っていき、いっぽう現実の政治家はそれを理想論として避ける傾向にあったのではないでしょうか。

 そして、山城王一族は、頑なに太子の理想を守る純潔でややもすれば排他的な秘密結社のように、飛鳥中央政府からは見られていたような気がします。この一族の中心人物が山背大兄王だった。蘇我入鹿らは、この不気味で目ざわりな一族をまず滅ぼすことにしたのです。

 入鹿は、手下に命じて斑鳩宮を襲わせる。山背勢の従者たちは果敢に戦った、その間に山背大兄王は妻や子供らと共に生駒山に逃げる。敵は斑鳩宮を焼き、退却する。大兄王らは数日間、山の中でひもじい思いをして過ごす。このとき、側近が主張するには、「伏見や東部方面には仲間がたくさんいます。今すぐ馬で出かけ、彼らを結集し、軍を立てて戦えば、入鹿軍に勝てるはずです」と。

 ところが、山背大兄王はこう答えたのです、「お前の言う通りであろう。しかし、私の身を守るために、多くの民百姓を使役するのは我が意ではない。もし、戦いに勝ったとしても、そのために父母を殺されたと、後に言われるのがイヤである。戦うより、わが一身を捨てて国の平安をきたせば、それも立派な男の道ではないか」と。

 それで結局、山背大兄王一族は山から斑鳩に帰還して、その寺で全員(一説に23人)自殺するのです。これでもって、聖徳太子の死後22年目にして、太子一族は消滅します。『書紀』は、こう続けています。

 〈このとき、五色の幡と蓋(きぬがさ)、妙なる音楽を伴った天女らの舞が、空から現れて寺に降りてきた。人々はそれを見て感動した。しかし、入鹿が見るとただの黒雲になってしまった。〉磔のイエスが息を引きとったとき天幕が裂けたというのとはだいぶん趣が違いますね。

 入鹿のお父さんの蝦夷が、これを知って、「入鹿の奴、愚かなことをしやがって、そのうちにおまえらも滅ぼされることになる」と言いました。

 翻って思うに、山背大兄王はあまりに仏教的理想主義者であったのですね。戦うことより死を選びました。しかし、いろいろ疑問が残りますね。死ぬ前にどうして一族を引き連れて山を彷徨し、下山して皆を道連れにしたのだろうか。早く一人で死ねばよかったではないか。また、その前に、どうして入鹿たちに、正々堂々と己の立場を主張しなかったのか。大義はこちらにあるはずではなかったのか。父聖徳太子の威光もまだ残っていたはずで、側近が奨めたように、周辺の仲間を結集すれば、戦いにも勝てたはずではないか。

山背大兄王一族の消滅は、聖徳太子自身が蒔いた種から生じたように思われます。時代を超越した人。あれほどの仏教帰依者、あれほどの理想家、あれほどの行動家から思想家への純化。その遺産を、たとえ優秀であったとしても普通人であった息子が背負わされてしまった運命を思うのです。彼は最後まで迷った、だからこそ、どの道を選ぶにせよ潔さがなかったのだと思います。

政治に善悪はないと言われますが、にもかかわらずわれわれは善悪を気にせずに生きてゆくことができません。それをいいことに、現実政治ではそういう人間の性質がたくみに利用される。政治に利用された瞬間、それは善悪ではなくてプロパガンダに堕しますね。

しかし宗教は個人の心の善悪を深く追求します。ところで誰か答えてほしい、自分の感情に忠実なることは、たとえば、家族を殺した者にたいして怒り、復讐することは善でしょうか悪でしょうか。さあ、これを考え出したら、人は世界宗教の入口に立っている、そして聖徳太子は、例えばその疑問から出発したのです。そして、その遠い帰結は悲惨な一族全滅でした。





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鎌倉に行く3

 お昼を食べて、親戚の家で少し休憩をしてから福井の従兄弟といっしょに帰ろうと考えていたのだが、従兄弟が名古屋から福井までの列車が夜発しかないというので、それまで暇ができたので、一人、神奈川県立近代美術館葉山に行ってきた。なぜかというと、金山康喜という画家の絵を最近テレビや新聞で知っていて、多少気になっていた、そこへ、たまたまこの日に、彼の絵画展のポスターに目がとまったから。 

   金山康喜1

この人の絵の魅力はなんだろう。青の層への探求、そして日常の平凡なモノからなんとかしてその三次元性を剥ぎ取って、その表層の名のみ残し、しかるべき位置に配置しようとする、しかしその困難さ・・・そして、彼は33歳で早世したのだった。

 帰りバスの窓には、午後の光で照らされた相模湾が続いていた。とつぜん砂浜に陳和卿が造った船が朽ちてゆくのが幻のように浮かんだ。

   春の海 見果てぬ夢の 昔かな

 なんとなく心が落ち着かないまま、さらに時間があったので、八幡様の隣りにある県立美術館別館に足を向けた。ゴヤ、ドラクロワ、ルドン等の版画には、これまたまったく別種の異界からの誘惑を感じた。

 幻想の系譜1 幻想の系譜3


親戚の家に戻って、やはりルーツ的好奇心を押さえられず、この親戚I家の過去について尋ねた。すると、待ってましたとばかり、ご主人が系図を見せながら語るところによると、彼のお祖父さんの兄弟が、いまテレビでやってる松陰先生の義弟の小田村伊之助の子供の養子となって小田村家を継いでいるそうだ。世間は狭いもんだね。


     

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鎌倉に行く2

 明くる日の午前、鶴岡八幡宮に参詣す。鎌倉という都市の由緒はこの八幡宮にあり。都から遠く離れた鎌倉で征夷大将軍を任命された源頼朝周辺の武士団たちが政治に携わりはじめた時、いかに世の中が不気味な暗闇に蓋われてわれていったか。その暗黒はこの八幡宮の参道における源実朝暗殺に極まる。

 実朝という稀有な人間の存在が、その死によって、力と欲望の歴史の流れの拒絶を貫いたという印象を受ける。小生はどうしてもその現場を見たかった。目印の大銀杏は、ちょうど三年前の春、強風のために倒されて、今は根と幹の一部が残っている。

 鶴岡八幡宮1


 実朝暗殺。小生は、彼は殺されたというよりも、殺されることを知っていて、殺されるまでの経過を素直に自ら進んで演じていったように感じられる。将軍とならざるを得なかった身分でありながら京の文化とりわけ歌壇に強く触れた鋭敏な青年が、己の死を予感して生きた。もっとも不穏な状況に、もっとも裸の鋭敏な魂が生きた証は『金槐和歌集 巻之下』に尽くされている。

 ゆく舟を見ては、百人一首にも採られているこの歌

  世の中は常にもがもな渚漕ぐ
     海人の小舟の綱手かなしも


 世を歎いている人を見ては、

  とにかくにあればありける世にしあれば
     なしとてもなき世をもふるかも


 そしてこころとは、

  神といひ仏といふも世の中の
      人のこころのほかのものかは


 そして入り日を眺めて詠う、

  くれなゐのちしほのまふり山の端に
      日の入るときの空にぞありける


 鎌倉のために右大臣に昇進した彼には、もはや為すべきことがあったであろうか。雪の降る夜、鶴岡神拝を終え、石階を下ったところで、銀杏の蔭から刺客が飛び出てきた。実朝の体から鮮血が迸った。

               *

ついでに、すぐ裏にある建長寺という寺に寄った。ここの参道にある桧の立派さには驚いた。

  建長寺


概して、鎌倉には巨木が多い、そしてまたリスをいたるところで目にした。


          


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鎌倉に行く1

かつて本当に行ったことがあるのか、それとも夢の中で行ったのか、あるいはエピソードや写真からあたかも実際に行ったかのような記憶が作られていったのか、…そういう場所があるものだ。小生にとって鎌倉がその一つである。

 たしか、そのむかし鎌倉駅で乗り降りしたことがある、線路や混雑したホームの状況は浮かんでくる。しかし、鶴岡八幡宮はまったく記憶にない。大仏の前に立ったことがあるようなないような…、という感じで、じっさいには鎌倉には行ってないような気がする。

 福井の従兄弟が、彼の姉の嫁ぎ先の鎌倉へ叔母を連れていく、それに合わせてわが娘も鎌倉へ行くという、ならば小生もということで、鎌倉に向かった。電車を二回乗り換えて、鎌倉駅のホームに降り立ったとき、高架になっているし、周囲の雰囲気はあの時と違う、やっぱり来たことがないかな、と思った。しかし、あの時とはもう何十年の隔たりがあるから変わっていて当然だ・・・。

 従姉妹の嫁ぎ先の家は駅から歩いて6・7分の所にある。御主人にまず、駅の構造は昔と変わっていないかどうか尋ねたところ、変わっていないとのことであった。やはり小生は鎌倉には来ていないにちがいない。

ところで、さらに今回あたらしく勘違いをしていたことは、駅は高架だと思いこんでいたことだ。じっさいレールは地面の高さにあって、改札口が地下にあるだけなのである。このことを、帰って来てから頭の中でハッキリ確認した。この確認がなければ、あるいは確認しても、十年後にも、鎌倉駅は高架になっているという印象に強く支配され続けている可能性大である。

 親戚に行く前に、じつは先に北鎌倉で降りて、東慶寺に寄った。どうせ鎌倉に行くのなら、小林秀雄の墓参りをしておこうと思いたったからだ。参道の両脇には梅がまだ見頃で、それらの多くは概して、早くに成長を断念したような奇怪な小さな老木で決して美しい形ではない。しかし、それらが一様に参道に並んでいるところを歩いて行くと、わざとそのように造られたようにも思われて、こういう木訥というか、一見飾り気がないような、この感じがなかなかいいようにも思えてくる。これはこういう種類の梅なのか、狙って作ったものか、剪定はどうしているのか、今にして思えば、あのとき掃除をしていた庭師風情の二三人が居たが、その人らに訊いておけばよかった、残念無念。

東慶寺1  東慶寺2

 墓地と言っても平地にぎっしり並んでいるようなのではなく、大木が散在する苔むした山裾のなだらかな斜面に、墓石がぱらぱらと散在している。とても静かで、鶯などの鳥が鳴いている。ふだんから墓は要らぬと公言している小生でも、こういうところに眠れるなら墓もいいものだと思った。

   東慶寺3


この寺はもと尼寺で、縁切り寺とも言われ、女性のための駆け込み寺であったそうである。この寺の衒いのない柔らかい雰囲気はそのゆえであろうか。ちょうどやっていた仏像展を見て、帰りがけ目の前にある円覚寺にも寄った。ここはまた立派な山門をかまえた広い寺である。臨済宗の一本山、北條時宗の開基。座禅道場を有するとのこと。

 午後、親戚の家に行った。従姉妹はわれわれのために、うどんを作ってくれた。曇りだったけれど、御主人が由比ガ浜と江の島を見せてあげようと、車で案内をしてくれた。途中でとても車が混んでいたので、江ノ島までは行かず、大仏まで送ってくれた。この大仏さまは、見ようによってはえらく猫背で、長年の風雨の影響か眼の下が暗くよどんでいて、悩んでいるようにも見えて、また頬の辺りの継ぎが露骨で、ちょっと怖い印象を与える。

小雨がぱらぱらする中、すぐ近くの長谷寺へ。大きな金箔の十一面観世音菩薩像が力強く見える。奈良の長谷寺とはこの観音像の深い奇縁で結ばれているそうな。

  ありがたや 春雨けぶる 堂のうち

それよりなにより、ここには、巨木がいくつか立っていて、これに目を奪われた。

長谷寺


   観音の 威光を受けて 育ちけり

           

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惜春

今年はわが家の梅がよくない。上の3分の1に花がない。なぜか解らないが、昨夏の降水量が少なかったのか。大きくなった割に栄養不足だったのか。いろいろ想像する。しかし、よくないと言わず、これが今年のこの梅の姿で、これはこれでよしと前向きに考えよう。

   このたびは 花を減らして 粋に立つ

   H.27梅


数日前から散り始め、霰や雨で流され、さらに二日前の強風によって、あはれ花びら空に舞う。


   散りそめし梅のかをりもこれまでと
      胸いっぱいに深く吸い込む


  惜しいかなめじろひよどりはとも来て
      残り少なき花を散らすも


  ゆく春のゆふぐれ時の梅の花
      散り敷く庭の白のさやけさ


  幾春のよろこびくれし老いの木に
      今宵感謝の宴をなさむ


  花散りて闇は広ごりわが庭に
      またふたたびの春やくるかも




        


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ルーツ2

小生の父は養子である。だから小生は、母方の祖父母と一つ家で育った。とはいえ、祖父は小生が2歳のとき亡くなったので、はっきりした記憶がない。強いて言えば、一番古い記憶と思うが、自転車の前の方に子供用のシートが付けてあって、そこに乗せてもらい、田んぼに行って、あぜにしゃがんで手ぬぐいでメダカを掬ってもらった記憶がある、そのとき乗せていってくれたのが、ひょっとして祖父だったのか、あるいは父だったのか、定かではない。

 母や叔母から聞いているのは、祖父は小生が生まれると、三代目にしてやっと男の子が生まれてきた、めでたいことだと言って、とても小生をかわいがってくれたそうである。それで、小生は、はっきりした記憶がないこの祖父が小生を背後から守ってくれていると、いつしか信じるようになった。車の運転などで、ひやりとした経験をしたときなど、「あっ、お祖父さんが助けてくれた」と、つい人前でも口に出てしまうことがある。

 この祖父も養子であって、彼が生まれ育った所は、小生が生まれ育った家から7~8キロメートル離れた井田川という村だ。今は鈴鹿市に入っている。姓は宮崎という。祖父がわが家に来る前、じつは他に養子が決まっていた。しかし、その人が20歳になる前に結核で亡くなったため、急遽新しい養子候補を探した。なぜ宮崎家の二男である祖父がノミネートされたのか分からないが、宮崎家には12人の兄弟姉妹がおり、そのうち男子が○○人いた。当時、祖父は医者になるべく、東京の予備校で勉強していた。しかし、急遽わが家に養子になるよう要請されて帰郷した。わが家は代々、肥料商を営んでいたので、祖父はそれを継いだ。

 ところで、祖父の出である鈴鹿市井田川の宮崎家には、小生いつだったか…たぶん小学校の低学年くらいのとき2・3回連れて行ってもらったような気がする。その家の玄関先のたたずまいをはっきり覚えている。もう一度、そこを訪れたいと何時しか思うようになっていたが、是非にという気持でもなかった。

 ところが、12月だったか、ちょっと亀山市に用事で出かけたとき、たまたま亀山歴史博物館での講演会の予告ポスターに目がとまった。それは郷土の名士の一人である服部四郎という言語学者についての講演であった。演者はその人の御子息の服部旦(あさけ)という人である。そのポスターを見たとき胸が高鳴った。というのは、服部四郎さんは祖父か祖母の従兄弟であると母から聞いていて、小生はその繋がりを確かめたいという思いも頭の片隅にずっと残っていたからである。これは僥倖だ。もし、演者の旦さんに尋ねれば、その辺りの関係が判るかもしれない。

 そして、講演の日、3月1日が来た。講演の後、小生は旦さんに祖父母の名前を書いて、四郎さんとの関係を尋ねた。しかし、旦さんは分からない、しかしこの歴史博物館から少し行った鈴鹿市にある佐々木信綱記念館に藤田家の本と系図があるから、それを見ると分かるだろうと教えてくれたので、歴史博物館の係員にその本について訊いたら、すぐもって来て見せてくれた。それで、祖父と服部四郎さんとの従兄弟関係が明瞭に分かった。長年の便秘がすっきり治った気持であった。

   亀山1


 さらに、その直後たまたま祖父の甥にあたる人の奥さんであるという人に出会えた。そしてその人は、やはり藤田家系図のコピーと、わが家のアルバムにもある宮崎家の写真のコピーを持って来ておられて、それで確認させてもらった。その写真は、昭和16年1月3日に撮られたもので、祖父を含め12人兄弟姉妹が写っていて、この曾祖母の多産のゆえに表彰状が添えられている。

そしてなんと帰り、気にかかっていた井田川の宮崎の家を教えてあげようと、そこまで車で案内していただいた。 ああ、たしかに小生の記憶に残っているあの家だ。50年以上ぶりだ。そして今の当主にも会えた。確かこの人は、あの時まだ若々しい青年だった。昔のアルバムで知っている。向こうも小生のことをよく知っていてくれた。

   亀山2


 なんと実りの多い一日だったろう。神のお導きとしか言いようがない。後世のためにしっかり書き残しておけ、それがお前に託されたささやかな仕事だ、と言われたような気がした。



     


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『The unlikely pilgrimage…』

 三か月くらい前、知人がくれた本がある。英語の小説なので、なんとなく敬遠していたのだが、せっかくもらったのだし、冥土の土産ってことかもしれない、まあなんとなく読んでみようと読みだした次第だが、なかなか面白く、小生の拙い英語力でもずんずん引き込まれてしまった。

 『The unlikely pilgrimage of Harold Fry』という2012年に出た小説。主人公ハロルドは背の高い、しかし臆病でおとなしく、まあ凡庸といえるこの男は、イギリスの南端の都市に住んでいる。定年退職後、仕事と言えば庭の芝刈りくらいか。子供はいない。かつて息子が一人いたが、20年も前に自死してしまった、それからというもの妻との間には隙間風が吹きっぱなしで、形ばかりの家庭をなしている。

 ある朝、一通の封筒が届く。開いてみると、それはずっと以前、ハロルドの職場でしばらく一緒だった女性キニーからだった。彼女はいまガンを患っていて、遠く離れたスコットランドの、あるホスピスに居るということだった。それで彼は返事の手紙を書いて投函しようとするが、ポストの前に立つごとに、こんな文面でいいのだろうか、と投函をためらう。そして、バーガーを食べるために立ち寄ったガソリンスタンドの女の子とおしゃべりをする。

 女の子はハロルドの話を聞いて言う、自分の叔母もガンを患っていた。でも前向きな気持ちでいなくちゃ。人間の心にはまだまだ理解できないことがいっぱいあるし、それを信じて進まなくては云々。宗教的信念とはふだんから無縁のハロルドは、しかしこの女の子の言う信仰という言葉が頭から離れない。それは宗教的なものではないと少女は言うが、小生に言わせれば、その態度はまさに宗教の普遍的発端に立っている。

 ハロルドは、突然電話ボックスに飛びこみ、ホスピスに電話する。返事を待つ間、自分がいる街から、1000キロも離れた病気の女性がいる街への道路や川や山などを想像する、そのとき突然、決心がやってくる。彼は電話に出たホスピスの職員に言う、今からそちらに向かうから、それまで待っているようにキニーに伝えて、と。

 なんの躊躇することがあるものか、彼はそのまま北に向かって歩き出した。1000キロメートルの歩行の旅、まさにそれは贖罪の行為すなわち巡礼に似たものだった。決して健康とは言えない彼にとって、道中は困難を極めた。ほどなく足にマメはできる、化膿はする、脚がつる、・・・。しかし彼はいろいろな人たちと出会って、それぞれの人がいかに彼ら独自の問題を抱えて生きているか、そして歩く理由を語る彼にいかに多くの人たちが共感してくれるかを知る。

 様々な人たちとの出会い。イングランドの町や自然の風景を彼は今更のように見つめる。それらが絶えずヒントになって、彼の頭に自分の過去の生活が繰り返し蘇る。両親の思い出、妻との出会いそして結婚、息子への無理解と彼の自死、冷たくなりゆく夫婦関係。勤めていた会社におけるキニー。それらが蘇るたびに彼の理解は深まる。新しい人たちとの出会い、自然の風景、そして記憶のフラッシュバック、これらが混然一体になって、物語を展開させる作者の手腕はさすがと感じた。

 出発して目的のホスピスに到着するまでの87日間には、様々な紆余曲折があった。道を間違えたり、また彼の〈巡礼〉に賛同して付いてくる人たち、賛同者が多くなればなるほど誤解も増え、マスメディアも飛びついてきて、ゴシップのネタにする。終わりのほうで彼は疲労困憊し、旅を諦めようともする。しかし、ついにホスピスに着いた彼は、一人の修道女に案内されて、キニーに逢うことができる。だがすでに彼女は話ができる状態ではなかった。

 キニーの死ののち、修道女はハロルド夫妻に夕べの祈りに同席する許可を与える。薄暗い室内で、二人が思い出していたのは彼らの息子の死だった。そのむかし息子の死を諦めきれず夫を責めた妻は、いまそのことを彼に謝る。そして思う、how a life is not complete without meeting its closure.…If we can’t be open, if we can’t accept what we don’t know, there really is no hope.(人生は死の後にはじめて完成する。…もしわれわれが心を広く開いて、知り得ないことをも受け入れなければ、希望はないだろう)

  この本の表紙に the Sunday Times bestsellerと書いてある。なるほど、本当にこのような本を多くの人が読み、しみじみ感じるところがあるならば、それは文明国と言える。それに対して思う、豊かになった人々が高額の炊飯器や便座を買いあさるようになっても、それだけでは文明国ではない、と。


     

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ルーツ

わが家には系図が残っていて、それを見るとわが姓は鎌倉時代初期に作られたと書いてある。その経緯についても記載があって、『吾妻鏡』にも似たような状況が触れられていて、家名を重んじるご先祖が、こういう歴史書に関連づけて書いたのかもしれない。

 この系図によると、わが御先祖は室町時代には四国の讃岐に住んでいたことが判る。その時の何某が親に勘当されて(たぶん永享の乱(1487)で反幕府勢力についたためか)、京にのがれ、そこで知り合った朝倉氏に拾われ員弁(いなべ:現四日市市)に下った。7・8年くらい前、讃岐に行って祖先の菩提寺であったと思われる志度寺を訪ね、その頃の過去帳を見せてくれと頼んだが、そんな古い過去帳はもうぼろぼろで見せることはできないと断られた。

 なんでわが家にこの系図が残っているかというと、小生の5代前の杢米さんが江戸後期に員弁から家出をして鈴鹿の関に分家を為したのだけれど、その後、なぜか員弁の本家の重彦さんという人が明治33年に原本の巻物の系図を冊子に書き写してくれてあって、それがたまたまわが家に残っていたわけである。

 5・6年前に、この杢米さんが出てきた本家を知りたくて、苦労して見つけたことがある。昔庄屋さんをしていたという広い土地に一人で住んでおられた女性は、小生と同年代だ。そして重彦さんは彼女のお祖父さんとか言っていたが、しかし恐らく曾祖父ではないかと思う。小生の曾祖父母には実子がなかったので、彼女と同じ家系とは言え、とっくに血縁関係はない。

 ところで、小生と血のつながりのある父方の祖父母についての話は、父からほとんど聞かされていなかったし、そもそも父がどこで生まれたのかも知らなかった。つい最近になって、とは言っても10年くらい前に親戚筋から父は大阪生まれだということを耳にしたことがあったが、しかし父の死後、父方の親戚とは小生はあまり付き合いがなかったし、関心もなかった。

 ところが、2年くらい前、父の胤ちがいの弟が亡くなったとき、その奥さんから、相続の関係で戸籍謄本を見せてもらったのだが、そのとき父の祖父母が兵庫県出身であることを知って、大いに驚いたと同時に、彼らの生まれ育った所を知りたいと思った。例の如く、いつか行こうとは思っていたが・・・。

 祖母の出は、このたび改修を終えたばかりの姫路城郭のすぐ西側の材木町というところだ。旧姓を辿って一軒一軒を調べ、玄関の花に水遣りをしていたおじさんに尋ねても判らなかったが、まああのお祖母さんは結婚するまでこの辺りで育ったのだなと思ったことで良しとした。

  材木町1  材木町2
 


 ところが、祖父の出場所はよく判らなかった。戸籍に記されている住所は今はない。事前にインターネットで調べて見当はつけていたが、かなりいい加減で自信がない。それにあちこち歩き回ると疲れる。だからまず、叔母に見せてもらった戸籍謄本を出した竜野市(現たつの市)の役所を訪ねた。それが正解で、係員が調べてくれて、その場所は現在のこの辺りだと、ゼンリン地図を広げて、行き方を教えてくれた。

 その辺に行った。表札を見て回る。しかし、人影はない。全部の家を回ることは難しそうだ。かりにピンポンしても殆は出てきてくれまい、まあこの辺りということで良しとするか、・・・と思って諦めようとしたとき、近くの大きな家にお婆さんが入ってゆくのが見えた。これはチャンスと駆け寄り、かくかくしかじがの理由で石原家という古い家を探している、と訊いた。お婆さんは、この辺りには石原さんという家はない。しかし、たしかもっと南の方に石原という人がいたよ…、と言ってくれた。しかし役所で教えてくれた場所とはちょっと違う。どうしようと一瞬迷ったが、せっかくここまで来たのだから、行ってみることにした。

 それは、お婆さんの家から、1キロメートルくらいの所だろうか、広々した田園地帯で、田んぼの間に所々家がある。みな大きな家である。さっそく覗いた家の表札は、なんと石原であった。ドキドキする呼吸を整え、怪しまれぬために要領の好い説明を頭の中で繰り返してから、ピンポンを押した。

 ところが誰も出てこない。シーンとしている。門を押してみるが開かない。たぶん出払っているのだろう。しかたがないので、近くの家を当ってみる。と、次の家も石原だ・・・。そうか、この辺は石原一族の土地なのだ。きっと祖父の生まれた土地に違いない。そう思っただけでじんわりと喜びが胸に広がった。


  石原家2  


次の家にはピンポンがない。表門の引き戸を引いてみる。おっ、開いた。無断でそっと入って南向きの家の玄関に近づく。左手にある庭の向こうの部屋の廊下に座っている人影を見たので、庭石を渡って近づいた。向こうも怪しい人影を感じたのか、廊下の窓をそっと少しあけ、こちらを覗く。なんだこの不審者めという顔つきだ。小生は不意を突かれた感じで、ちょっとぎこちない挨拶と説明をした。しかし、向こうのは黙ったままでこちらを見つめる。なかなか不審を解くことができない様子だったので、戸籍謄本の写しを見せた。

すると、なるほどこの筆頭の人はわが家の曾祖父の名前だ、ちょっと待ってくれと言って、玄関から出てきてくれた。そしてなぜか今まで小生が歩いてきた門前の道に小生を誘い、広々とした田んぼのあちこちを指さしながら、辺りの地理の説明をし始めた。なんで、急にこんなことを饒舌に語り始めるのだろうと、今度はこちらが不審顔。

彼が言いたかったことは、その昔は江戸時代、石原の何某がいて、この辺り一帯の土地をもっていた。元禄時代、赤穂事件があったとき、その報を赤穂に伝える役目をしたらしい。しかし、明治の初め、この長男が、―小生が手にしている戸籍謄本の二人目の人物を指さし、―やくざ者になったたため、家から追放されたので、その弟であるこの音吉さん(曾祖父)が家督を継いだ、彼はとても真面目な働きものだったので、さらに広い何町という土地の地主になった…マーカーサーの来日後、わが土地は4反に減った、云々。

「とにかく、音吉さんがあなたの曾祖父ならば、小生の祖父はその弟だから、われわれは血のつながりがありますね」と小生は確然とした口調で言った。(じっさいは、一代経ると2分の1とすると、128分の1と薄いけどね。)それから、彼はまた小生を自宅の庭に誘って、この庭は自分が自分の趣味で造った庭でねと木々の説明をし始めた。庭を掘れば昔の石がいくらでも出てくるから、それをいくらでも利用できるのだ。あなたのお祖父さんが居たころのもので残っているものは、この銀木犀くらいかな、と庭の隅に在るやや大きい木を指さした。小生は、おおこれが祖父が見たものか触れたものかと思うと、とても懐かしい思いがして、何度もその幹をなでた。そしてその前で二人並んで記念写真を奥さんに撮ってもらった。

  石原家1


奥さんは、小生の顔を見て、そう言えば親戚の誰誰に似ている所があると言った。しかし、そう思ってみれば誰でもどこか似ている所があるのじゃないかな。そして、小生と同じ病を克服した人のことが書いてあるから、これを読めと言って数冊の雑誌を貸してくれようとした。小生は地元でもこの雑誌は読めるし、その御心だけで有り難いと言葉を返した。

石原さんは、すぐ近くにわが家の墓があるからといって、そこに小生を連れていった。広々とした田んぼの一角。また、彼は土地の話をながながとし始めた。小生は一通り墓石に頭を下げ、辺りの風景を記憶に刻みこんだ。もうこれでいいという気持ちだった。

それしても、顔を知ることもない祖父の生まれ育った家があった所に来ることができたのは、あの市役所員とたまたま遭ったお婆さんと小生の無礼な勇気のおかげであったのだ。帰りの駅まで歩く途中でうどんやに入ったが、小生の好みの味ではなかったのが残念であった。まあ、何もかもそううまくいくまい。


     


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ゴジラ

映画と言えば、昨年見た『ゴジラ』を思い出したが、今から思うとなんであれが『ゴジラ』なんだ。主役はあの鳥のような昆虫のようなムートーとかいう怪獣じゃないか。
 おそらく〈ゴジラ〉というネームヴァリューを優先させたのであろう。『ムートー』なんてタイトルの映画だったら見に来る人は少ないだろうな。『ゴジラ対ムートー』としても、昔に『ゴジラ対なんとか』シリーズの続きみたいで、もういいよという気分。

 小生が子供のころ、ゴジラという名前は迫力があった。それはまさに原水爆の威力の象徴だった。圧倒的な力で自然を破壊してしまう。人間はほんらい自然の前では無力なのであるが、われわれの科学は自然を構成している原子の秘密を知りその力を利用できるようになってしまった。それがために自然の制御を通り越して、自然を破壊し、さらには抹殺しえるようになった。そしてそれを為し得るようになった人間は自身をコントロールできないのでは、という恐怖を人々は感じ始めていた。

 2014年のこの日米合作の『ゴジラ』においては、あの津波でやられた福島原発事故に想を得ている。原発事故後の施設でムートーの育成をしていたところ、その怪獣は一気に育ち、施設から脱出して姿を消す。以前からそのあたりで振動(超音波?)が繰り返し聞かれたが、それが遠く離れた番(つがい)の相手との呼びかけであった。

 ムートーの番はアメリカ西部の核施設に向かっていた。栄養源としての放射能を取りに行くためである。いっぽう南海のどこからかゴジラが現れて同方向に急接近している。それはゴジラの狩猟本能に導かれてムートーを目指していたのだ。

 それを知った対策本部は核弾頭を囮(おとり)にして怪獣らを太平洋上に誘い出し、そこで集まった三匹を一挙に核爆発で殺傷してしまおうと目論んだ。そして、核弾頭を列車で港まで運ぶのだが、途中で核の匂いに敏感なムートーに見つかって奪われてしまう。雌のムートーは港にほど近いところで核弾頭の周りにぎっしりと産卵する。

 そこへゴジラが海からぬっと出てきて、激しい市街戦となる。最終的にムートーの番は死ぬ。死力を尽くしたゴジラもその場で倒れる。その戦いのさなか主人公は石油パイプを切って産卵場所を石油の海にし、そこへ火を放て卵を燃やしてしまう。そして核弾頭をボートに運び沖に向かった。そしてどうなったか忘れたが、たぶん時限発火装置を止めたのではなかったかな。明くる日、横たわっていたゴジラが目を覚ました。人々が驚くなか、ゴジラはゆっくりと海に入り姿を消す。

 興味深く感じたのは、ここではゴジラは人間世界にも核爆弾にもまったく関心を示さなかったことである。結果的には、核を必要とする怪獣を倒し人間世界を救ったことになったが、わざわざ南海から泳いで来たのは、ただただムートーと戦いたかったためである。ゴジラは昔日の核の威力の象徴から、もはやその役割は他の怪獣に譲り、ここではもの言わぬ圧倒的な神のような存在になった。


     

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