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偽問 3

 言葉を〈現実〉から遊離しないようにしながら、もっとも洗練させていけば、詩と数学ということになろう。数学ほど純粋なモノはない。最も澄み切った水のようだ。しかし、その比喩はよくない。水ではなく、H2Oだ。いやこれでもまだ人間臭い。H2Oではなく、たとえば、0000110001とでも表そうか。

 前回のゼノンの問題も、数学ならこう表して、

1/2+1/4+1/8+・・・1/2^n +・・・∞=1

アキレスが亀を追い抜く地点と時刻を正確に予想する。現代数学者の頭の中では、われわれには想像もできないほど複雑難解な数式が展開されていようと、数学の現実との不即不離の関係をわれわれは信じている。なぜ、頭の中でのみ展開する抽象的な数学が実際に役立ち、それを信じることができるのか。

 それは、数学は世界のあらゆる質を量に還元して扱うことができるからではなかろうか。数学にとって、赤は700nmであり、青は470nmなのだ。これほど正確で役に立つ表現はない。

 しかし、「アキレスは亀追を追い抜くということ」に関する数学的解決に、小生は何かが欠けているという印象をもつ。それは何だろう。おそらく、そこには現実の運動がないのではなかろうか。では現実の運動って何だろう。一つ考えてもらいたい。

 もし、科学者に運動を生じて見せよと言ったとする。彼は、アキレスが亀を追い抜く映像を映し出し、それを経時的に細かく分割した映像を何枚も取り、われわれの目に非常に速く提示する。つまり映画の手法だ。それぞれの映像は一つ一つ静止画像だけれど、われわれはそれを動きだと認知する。このさい、〈本当は〉すべての画像は静止しているのだけれど、われわれは〈誤って〉認知している、と言える。

 すると、ひょっとして我々が生まれてこのかた、現実だと認識しているものは虚像にすぎないのだろうか。そう言えるかどうか?

ヒント:真っ暗なスクリーンに光点Aを映し出す。それを消して、ただちにその近くに光点Bを映し出す。それを見るわれわれは、光点がAからBに移動したと知覚する。

 この錯覚は合理的なものであるまいか。
おそらく生きるために有効な、脳がとった手段である。
手品師はこのいわば必然的な錯覚をうまく利用する。

必要な錯覚。ここから、次の系が導かれる。

1. 地域社会が円滑に保たれるために必要としてきた錯覚 

宗教 例えば、古代においては、地球上のどの地域においても生贄を必要とした。

2. 個人が円滑に生きるために必要としてきた錯覚

心理的機制 例えば、鏡に映った自分の像を無意識のうちに修正して見ている。


fabricationの諸相

 
          へっ


       




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音楽の力

 小生にとって音楽とは神である。自分の力ではどう抗いようもない力で迫ってくる。いつ頃からか、朝起きると決まって、頭の中に音楽が流れている。ジャンルはいろいろだが、比較的多いのは、子供のとき憶えた歌が多い。「はーるの、うらあらあの、すうみいだーがわー」とか「うーのはなーの、におう垣根に」とか、これらはいま春だからというわけはない。冬真っ最中でも「うーみは、ひろいーな、おおきーな」なんてこともよくある。子供の時のテレビ番組の「ホームラン教室」や「怪傑ハリマオ」、また「東京音頭」みたいなものも突然やってくる。映画音楽や、朝だのにジルベルトの「Quiet night of quiet stars」や、バルトークの「夜の音楽」やドビュッシーの「月の光」もやってくる。ワグナーの楽劇やらモーツアルトの白鳥の歌・・・、その他なんでも浮かんでくる。幸いそのうち消えていって、一日中それに悩まされることはめったにないが。今朝は、『椿姫』のアリアとセルジオメンデスの『ノールウェーの森』が交代でちらちら流れている。

 子供の時、体で覚えたものは死ぬまで忘れないものだとよく言われる。老人ホームにいる義母なども、さっき言ったことも忘れるのに、女学校時代に憶えた百人一首はいつでもすらすら出てくる。意味は解っているのかどうかわからないけれど。

 どちらかというと、わが生活は、とくに若いころは、行きあたりばったりの、つまりその時やりたいことを欲望に負けてすぐする傾向があったけれど、あるころから、おおよ20~30年くらい前か(えらく漠然としているね)、生活も忙しくなってきたためか、聴きだしたら止まりにくい音楽に関して、小生は計画を立てた。

それは、できるだけ音楽を聴かないこと。とくに好きな音楽は、偶然耳にしたとき以外は、あえて聴こうとしないこと。それらは、いつか自分に死期が迫ってきたときに、一度だけ真剣に聴こうと決めたのだった。というのは、いつでも何度でも聴ける状態だと、つい真剣に聴かないこともあるし、欲望は切りなく、そのとき飽きるまで何度でも聴いてしまう。だらしなく快感に浸る。こういった時間がもったいないと考えるようになったからだ。

その上もう一つの理由がある。それは、自然の音、風の音や川の流れ、鳥の声などが、じつに心地よく聞こえ、音楽を聴くように、これに聴き入ってしまうことがよくあるようになったからだ。ときには、鳥の声さえ聴いておれば、べつに音楽は要らないとさえ感じることがある。

 死ぬまでに、あと一度だけ味わおうと思って、じっと我慢して残しておいた音楽は沢山ある。いま数日に一曲くらいのペースでそれを聴いている。これが最後だと思うと、大いに感動し、あっこんな面があったのだ、と新しい発見もすることがある。逆になんだこんなのだったのか、聴かずに永遠によい音楽だと思い込んでいたらよかった、と思うこともある。

…しかし、何でも予定通り、そううまくいくとは限らない。やっぱりいかん。これをもう一度聴きたくなる。止めたはずの煙草を試しに吸ってみる人のように、欲望はどこからともなく復活する。

昨夜聴いたシューマンの三番目の交響曲だが、参った。何十年ぶりで耳にしたのだが、こんなに豊富な音楽だったと思ったことがあろうか。Youtubeで聴いたにすぎない。Dudamelという人の指揮だが、じつにシューマンの交響曲が音楽になっているのだ。こんなに纏まった、しかもこんなに豊富な思想をもった音楽に。

 音楽の力の前では小生は無力だ。「死ぬまで一曲一回」を守って、もう聴かないことができるだろうか、やはり誘惑に負けてもう一度聴いてしまうか、ここは考え所だ。体中から汗が吹き出る。



     


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偽問 2

 
引きこもりの人は、一人部屋に引きこもって、いろいろな事を考えているみたいだ。とは言っても、じつは同じことを繰り返し自問自答しているようだけど。先日、引きこもり人と話をしていた。彼が言うには、うんと将来、遠い星の人たちとコンタクトをとることになろう。そのとき人類はテレポーテーションを使って瞬間移動できるようになるだろう、と。

 それに対して小生はこう答えた。テレポーテーションなんて考えられない。われわれは、この物質的肉体を持っている以上、光より速く移動することはできないと。これに対して彼が言うには、「いま考えられないことでも、将来は実現しているに違いない。今われわれが携帯電話でどこの誰とも交信できることなんて、縄文時代の人たちから見れば、とてもとても信じられないことが起こっているのと同じである。いま理論的に考えられることのみを根拠にしてしかものを考えられないのは、非常に視野が狭いのではないか。」

 さて、彼が言うように、小生の視野が狭いのか、それとも彼が行きすぎているのか。・・・それにしても、彼の言うことは絶対に間違っているとは言えないにしても、あまりに先のこと過ぎて、むしろ何とでも言えるのではあるまいかと感じるのである。

 言葉というモノは、遠い昔おそらく実際生活に便利な道具として発達してきたと思う。初めは、木とか火とか石とかいう名詞、そして獲るとか行くとかいう動詞などが発明されたのではないのかな。あるいは動物の鳴き声のように、危険だ逃げろとか獲物があるぞとかいうのが先かもしれない。まあ、なんにせよ、それらは発達して、心の中の思いを、希望や後悔を、そして表せるようになった。その最たる言葉は、日本列島ではカミではないのかな。生活が安定してきて食べるためだけに生きる時間を減らせるようになってきたとき、人は一段と抽象的な事を話せるようになり、ついには物語を生んだ。わが国では、文字を使用するはるか以前に、すでに浦島太郎やかぐや姫の類のサイエンスフィクションを人々は楽しんでいた。
 言葉の組み合わせでもって何でも表せるとなったとき、ひょっとして言葉はわれわれの理屈を超えたものをも表せるかもしれない、そういう実験をしてみようと考える人も出てくる。つとに『万葉集』巻16にそういうのがある。

無心所著(ナンセンス)の歌二首と題して、

  我妹子(わぎもこ)が額に生ふる双六の
        牡(ことひ)の牛の鞍の上の瘡(かさ)
3838

 現代風に翻案すれば、例えば、

 貴女の顔にある三角と黄色い北海道を足すと
     二十四の瞳になる


 となる。文法的(SVOC)には問題なくとも、ほとんど無意味である。

 あの引きこもりの言うことは、小生にはそんなふうな言葉遊びに聞こえるのである。小生は視野が狭く、遅れているのであろうか。

 ところで、言葉が現実の分析に向かうとこんなトリックもできる。紀元前5世紀のゼノンの有名な話。

 アキレスと亀の競争だ。例えばアキレスは亀の二倍の速さで走れる。亀は遅いので、ハンディーとして、だいぶん先にスタート地点を置いてやろう。そうして、よーいドン。
 アキレスが亀のスタートした地点に到達したとき、亀はすでにその半分の距離分前を走っている。次にアキレスがそこに到達したとき、亀はその半分前に行っている。さらにアキレスがそこに到達したとき、亀はその半分前を行っている。・・・この手続きを何万回進めても、つねに亀はアキレスの前にいる。だから、アキレスは決して亀を抜くことはできないでしょ。

  こう問われれば、さてどう答える。    
                        へっへっ



       

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山吹の花

 この季節、わが小庭にもいろいろな花が芽を出し始め、今日はどうなっているのかとわくわくし、朝夕に逍遥して時間が過ぎる。二年ほど前、知人にもらった山吹がわが庭にある。しかし、これは白山吹で、あの山吹色の山吹ではない。品種も違うようだ。どうも面白くないので、昨年の晩夏、思い切って文字通り、すっぱり切ってしまった。  

     白山吹
  
 しかし、植物というのは強いもので、枝がみんな切られても、根さえ付いていれば、また出てくる。これもそうだ。また、反対に五体満足に見えて枯れてしまうのもある。植物の生命の根源、動物に例えれば心臓に当たる部分はどこに在るのだろうとよく考えるが分からない。

 山吹というと、ふと万葉集にある歌を耳にして、ああそうだったのかと微かな記憶を呼び起こして、何といういい歌なんだろうと思った。それは、十市皇女が急死したときに、異母兄弟であった高市皇子尊の作った三首のなかの一首。(158)

  山吹の立ちよそひたる山清水
      汲みに行かめど道の知らなく

 水を汲みに行きたい(ああ皇女にもう一度逢いに行きたいものだ)けれど道が分からない。というのは、その清水の辺りには山吹が咲いている、そのゆかりの色の黄泉路には、生身の私は入っていけないはずだから。・・・それにしても、山吹に面影草との異名があるのはなぜだろう。

 この十市皇女は天武天皇の娘さんで、壬申の乱の敵将・大友皇子の妻であった。ということは、父と夫が戦って夫が殺されたわけですね。そうして、天武の息子さんである(異母兄弟の)高市皇子とは以前から結ばれていたらしい。

 そうして皇女の急死は、壬申の乱後、天武天皇が神々へ戦勝のご報告の儀に出発する、まさにその直前だった。それで、後世の史家は、彼女の死因をいろいろと想像している。

 それはそれとして、この山吹の歌の調べは、わが民族らしい神話的な美しさに満ち溢れている。

あのナルシスとはだいぶん違うね。




     


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偽問 1

ある優秀な中学生が言った、「どうして僕らには選挙権がないの。僕らは、歴史や政治の勉強もしているのに、20歳まで選挙に参加できないなんて、理由が分からない。およそ世の正邪などに心を労することもなく、昼間からパチンコに興じたり、エロドラマを見ている大人たちですら選挙権があるのに、僕らはどうして政治に参加できないの。14歳だからだめだというのは、どんな理屈から出てくるの。僕らはまだ仕事をしていないからだめだという人がいるけれど、僕らは家事の手伝いもやっているよ。
 昔は女性は選挙権がなかったけれど、男女差で選挙権の有無を決めるのはさすがおかしいということになって、今は男女同権でしょ。外国では肌の色の違いで差別があったけれど、今はそんなことで差別しないでしょ。
 人間はみな平等ならば、子供も大人も同権じゃないの。年齢で切るなんておかしいのではないか。」
 
 ということで、彼らは国会周辺で〈おとなこども同権!。アホな大人らも選挙権があるのに、我らにはどうしてないないのか!〉を訴えて大規模なデモをやった。その訴えは全国に次々と飛び火していき、ついには、中学生のみならず、小学生までが同じことを吠えたてるようになった。「人間みな平等。選挙権を我らに!」

 そんなことを暇つぶしに空想してみた。で、もしそうなったら彼らにどう答える。   へっへっ


      


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『地下室の手記』

30年くらい前に読んだものだが、まるで昨日読んだみたいであり、まったく違和感なく、今現在のこととして理解しながら読めた。おそらくこの地下の住人のような思考回路に日頃から比較的親しく接しているためかと思われる。

 思考回路という言葉は好きではない。しかし、この場合そういうのがぴったりである。つまり考えれば考えるほど、結局は同じところをくるくる回っていることに気が付くのであって、それがまた苛立たしく、別の脱出口がたまたま見つかって進んで行っても、また来た道を歩んでいることに気が付いて、絶望的な苦しさを味わう。しかしじつは最初からそのことをすでに予感していて、その予感が達成されたという意識がたえず伴う。そしてその進行には同時にまた強烈な快感を伴うことがあるから救いようがない。

 その昔、ある精神科医が統合失調症の患者を評して〈反省地獄〉と言ったことが忘れられない。患者はある行為をなす、あるいは―この方が圧倒的に多いのであるが―なさない理由を考える。どんどん考え出す。そこでやめときゃいいのに、彼の自意識は強烈で、やめられない。どこまでも言い訳をせざるを得ない。他者に対して、そして、むしろ自分に対して。

 地下の住人は、つねにいらいらして、考えて、考えて、考えた末にやってしまう。しかし決まってじつにドジなことをやってしまう。そして、ここが肝心な点だが、そんなことは初めから自分でもよく解っていたのだ。自分の行為の予見は的中する。それがまた苛立たせる。周囲の人間は、不器用な彼を避ける。自意識という限り彼は正統である。だから、彼は周囲の人たちの欺瞞がよく見える。

 いっぽう彼は、周囲の人たちのいわゆる立身出世、上手な生き方、生活を楽しめること、その安楽で希薄な意識を羨んでもいる。そして同時に軽蔑している。地下の住人は、その理由として自分は「教養のある頭のいい現代人」だから、と言う。たしかに彼は頭がいい。自分の他人に及ぼす影響に関して常に理屈をこねまわしている。しかし彼は成功しない。彼は失敗し続ける。さらに、そういう自分自身をもっとも軽蔑している。

 地下の住人と統合失調症の人とは一見とても似ている。両者とも、小生から見ると、身の丈に合わないところのものを得ようとしている。得られないから、いらいらしたり、絶望したりしているし、たえず自他にたいして言い訳をしている。それは延々と続き、目覚めてはこれは夢だったかと気が付くように、だんだんと深まるようでいて、同じ回路をぐるぐる回っているにすぎない。

 だが両者の決定的な違いがある。それは、地下の住人の心のうちには、その形は漠としているが、方向がはっきりした一つの渇望がある。この絶対的渇望のゆえに、いっさいの地上的現実が明瞭に相対化される。ドンキホーテを、彼の理想と行為をそのままにさせておいて、毎瞬間ごとに反省地獄に陥らせたら、どうなんだろう、とは無意味な想像である。だが、そんな想像をしたくならせるものが、地下の住人にはある。

 しかし、人間が生きる典型とはこういうことではないだろうか。彼の生には何か非常に具体的なものがある。統合失調症の人たちも強い希望をもっている。しかし彼らの生には具体的なものが欠けている。われわれ凡人はその中間ぐらいに漂っていると言えるかな。


       

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Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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