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漫談 on Paris

やまと君 「そういえば、今年は年明け早々、パリで二人のイスラム教の信者二人が、なんとか言う雑誌社を襲ったけど、あの出版社なんというのだったかな」

パリ女 「シャルリエブドという週刊新聞社でしょ」

やまと君 「そうそう。そういう名だった。二人のイスラム教徒の若者が17人の命を奪ったのはショックだったけど・・・」

パリ女 「私もすごいショックを受けたわ。まさかパリでこんなことが起こるなんて」

やまと君 「でも、その新聞はいつもえげつない漫画を掲載していて、ムハンマドの風刺もよくやっていたというじゃないの。そりゃイスラムの真面目な若者は怒るよ」

移民少女 「そうよ。ひどいじゃん、シャルリエブドは。以前からイスラム教徒から抗議の声が上がっていたわ。あんなことを続けていたら、いつかはこのような事件が起こることは分かっていたはずじゃん。」

パリ女 「オー、マドモアゼル。でも殺人で仕返しをするのは最悪だわ」

やまと君 「そりゃ殺人はいかんな」

移民少女 「でも、そこまでイスラムの若者を追い込んだのがいけないじゃん。私らにとってモハメッドの絵を描くことすら考えられないし、まして面白おかしく風刺するなんて、無神経にも程があるじゃん」

やまと君 「そうだなあ。イスラム教徒がそんなに嫌がっているのに、教祖を辱めるような漫画を描くのも悪いよなぁ」

パリ女 「ムッシュー。フランスは自由の国よ。表現の自由を何より重んじるのよ。そりゃシャルリエブドはえげつないかもしれないけれど、間違っていると思ったら、どうどうと言論で反論すればいいのよ。それに、私たちイスラム教徒でない人間がムハンマドについて何と言おうとも、イスラム教徒が反発するのはおかしいわ。」

移民少女 「それにしても、私たちはパリに住んでいるのよ。一緒に住んでいるのに、私たちの神経を逆なでするようなことを、そう執拗に表現することはないじゃないの」

やまと君 「そうだなぁ。日本人なら、他人がそんなに嫌がっているのなら、あまり言うのはやめておこうと考えるだろなあぁ。」

パリ女 「だから日本は村社会って言われるのよ、ホッホッホ」

やまと君 「そうなんかなぁ。一番驚いたのは、あの事件の直後、フランス全土で300万人以上の人らが、〈私はシャルリ〉なんてプラカードを掲げて、表現の自由を訴えたことだな。そのときフランス大統領・・・なんという名前だったかな、それとドイツの首相やその他大勢の国々のえらいやさんたちも、一緒になってデモ行進したけれど、不思議な光景だな、なんか冗談かと思ったよ。」

パリ女 「オー、ムッシュー。これがフランスの伝統なのよ。わが国はずっと昔から、世俗第一主義、政教分離の原則があるの。ライシテっていうのだけどね。学校や公の場では、あからさまな宗教表現はいけないことになっているのよ。」

やまと君 「あの襲撃事件以来、フランス政府はその政教分離を学校でいっそう徹底させるべく、ラ・マルセイエズを歌わせることを推し進めているというじゃないか。これがどうもぴんとこなかたけど・・・。日本もこのごろ道徳教育だの国歌斉唱なんかを奨める傾向があるけれど、その意味はぜんぜん違うね、むしろ反対みたいだな。」

パリ女 「ウイ。ウイ。全然違うのよ。フランス共和国においては、道徳とは、宗教のもつ恐ろしい力から理性を守ることよ。それがラ・マルセイエズなのよ。ホッホッホ 国家の起源を神話や宗教に求めると独善に陥りがちだよね。そんなのからすっぱり手を切ったのだね、フランスは。国家はたんなる世俗的な統治機構とするのがスマートなのよ。ホッホッホ。」

移民少女 「フランスがそんなに道徳的な国ならば、どうして私たち移民二世・三世を差別するの。私たちは学校も職場も住まいもだんだん不利に・・・孤立化させられてきているじゃん。あの襲撃犯の若者たちも被差別感にさいなまされていたのよ。」

 パリ女 「ビアンシュール。べつに私たちは、あなたがたを差別するつもりはないわ。たしかに一部のフランス人は差別しているみたいだけど・・・。」

移民少女 「それを矯正することが先決じゃなくて」

パリ女 「政府は、今いかなる種類の差別もしないように生徒たちに徹底させようとしていますよ。これがラ・マルセイエズよ。ホッホッ。でもね、それには、まずいかなる人も、この国に住んでいる以上、この国の方針に従わなくてはいけないわ。ずっと前、イスラムの女学生が教室でスカーフをとらないので、退学させられたことがあったわね。あの処分は当然よ。」

やまと君 「あれはちょっと可哀そうじゃないのかなぁ。日本人だったら、べつに他人に迷惑をかけないならば、まあスカーフくらいしていてもいいじゃないのって思うけれどね。」

パリ女 「アロー。だから、日本人は平和ボケって言われるのよ。ホッホッホ。あんたがたは、2000年のあいだ海に囲まれて他国とそう酷い戦争が続いたことがないから、そういう発想になるのよ。私たちは、そりゃもう酷いものだった。宗教の名のもとに土地を巡って戦わない日は一日たりともなかった。戦争の原因の一つである宗教を政治から切り離すのはとても困難だったのよ。それをやっと百年前に法的に禁止するようになったのよ。フランスにとってこれほど重要なことはないわ。だから個人の信仰は尊重するけれど、公の場所でのあからさまな十字架のネックレースは禁止なのよ」

やまと君 「解ったけれど、だかといって、あんな不快な思いをさせる漫画新聞をよしとするのは、理解できんな。むしろ、あれは戦いを起こす要因の一つにはならんかな」

移民少女 「そうじゃん。あんな新聞記事が戦いを誘発するのよ。」

パリ女 「マドモアゼル。暴力はいけない。とくに現代のような、ボタンひとつでパリを消滅できるような時代ではとくにね。表現の自由は絶対だわ。もし不快な思いをしたら、言論で勝負すべきだわ。それが理性というものよ。そして論争でにっちもさっちもいかなくなったら、最後は気のきいたウイットで終わるのよ。それで両者は真の友人どうしになれるの。それがフランスのエスプリって言うのよ。ホッホッホ」

やまと君 「では訊きますが、他人に不快な思いをさせてもいいが、暴力はいけない、殺人はいけない、というのはどこから出てきたの。誰が決めたの。その根拠は何なんだい。」

パリ女 「自分の親や先生や尊敬する人の悪口を言われて不快な思いするのは当然であるとしても、それに対してさらっと流せる、あるいはそれに対して反論できるのがフランス精神よ。」

やまと君 「それは素晴らしい精神だとしても、わざわざその人の前で悪口を言わなくてもいいじゃないの。」

パリ女 「それを聞いて不快な思いをして、黙って胸の内にしまいこんで、いじいじしている人を、冴えない人とか弱い人っていうのよ。フランスではね。そしてそれがたまると、いつか爆発するわ」

やまと君 「でも世の中には弱い人もいっぱい居るじゃない。そういう人たちの心をつねに配慮して生きるのが、あなたに反発して言わせてもらえば、日本精神と言いたくなるね。とにかくわれわれは人情を大切にする。」

パリ女 「ホッホッ。例の日本人特有の、黙っていても意は通じるっていうのね。やっぱり村社会ね。一見素晴らしいわ。あなたたちは、いつも他人の目を気にして生活している。他人が自分についてどう思うかを第一に考えている。慎み深く、控え目で、美しいわ。だから、日本人はまとまりがいいのね。でも、われわれパリジェーンヌから見ると、だから日本人は個人として独立していないのよ。」

やまと君 「個人の独立と言ってみても、言葉だけ聞くと立派だけど、人は一人では生きておれません。人はいつも他人との心の交流の中で生きていますよ。僕から見ると、フランス人はわがままなんだな。わがままと言うのがイヤなので、格好をつけて個人の独立なんて言っているような気がするな。離婚が多いのはその一典型じゃないか」

パリ女 「あっはっはっは。おっホッホッホ。あなたたちだって、もっと自分で自由にものを考え行動できるようになったら、離婚も増えるでしょうに。」

やまと君 「でもね。あなたがたの言う個人の概念は、やっぱりキリスト教から来たものじゃないの、つまり全ての人は神の前では平等というのとパラレルだね。われわれ日本人は、私がいて、あなたがいて、誰誰さんがいて、皆それぞれその性格に応じて生きている。それで充分なんだ。べつに個人がどうのこうのとあらためて言う必要はない。そう考えると、個人を強調するあなたたちはやはりキリスト教文明の落し子なんだ。」

パリ女 「・・・まあ、起源のことを考えると、何とでも解釈できそうだし、今の生き方を問題にしている時に起源をもちだすのは野暮なことよ。ホッホッホ、まあ、それはそれとして、もう一つの問題、どうして殺人はいけないかって。それは、生物学的要請から来ているのよ。それを説明すると長くなるから、今日はやめとくね。またゆっくり話しましょうね。アビアントー。」





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『神曲』 2

 しかし見方によると、ここが一番面白いとも言える。ここにきて、いったいヨーロッパ中世とは何だったのか、と問わざるをえない。中世。年代的には諸説あるものの、概ね5世紀西ローマが滅んでから、15世紀東ローマが滅ぶまで。だが『神曲』を読んだ後では、小生はヨーロッパ中世を一つの理念でもって表したくなる。すなわち、キリスト教をギリシャ哲学で説明し正当化しよすとすること。プラトンの宇宙論をベースに、キリストの磔劇をアリストテレスの言葉で解明すること。全情熱が、ひとえにここに掛っているように見える。

 ローマ・カソリックに完全に帰依しているダンテに、ヴィルギリウスは言う、

「三位一体の神が司る無限の道を
 人間の理性で行き尽くせると
 期待するのは狂気の沙汰だ。
 人間には分限がある、『何か』
 という以上は問わぬことだ。
 もしお前らにすべてがわかるというのなら
 マリアがお生みになる必要はなかった。」

 三位一体説。これについてはかつて書物で調べたり、教会の神父さんに訊きにいったりしたものだが、小生の頭ではついに理解することができなかった。おそらく、さらに百年生きて考えても、小生には解らないと思う。たぶん、解らないように作られているのだ。誰も解ってはならぬ。

 しかし、天国におけるベアトリーチェはダンテに全てを説明しようとする。
アダムの罪はその子孫すべてを罪に落した。長いあいだ人類は下界で病んでいた。しかし、その時が来るに及び、神は、創造主から離れていた人性を永遠の愛の働きによって、神に、神の位格において、結びつけられた。人性は、創造主に結び付けられると、清純、善良になった。しかし人間が道を踏み外したので、天国から追放されていた。

十字架において科せられた罰は、キリストが帯びていた人性に照らしてみれば、正当な罰であり、この人性が結びついていた神の位格が蒙った非礼を考えてみると、不当な罰といえる。同じ一つの死を神もユダヤ人も喜んだが、その死によって、地が震え、天が開かれた。正義の復讐が、そののち正義の法廷によって、報復を加えられた。

 なぜ神はわざわざこの様な面倒な手続きをとったのかって。
 人間が楽園からの追放を回復するには、神が慈悲の心から人間を許したまうか、または人間が自らの手で決着をつけるかしかない。しかし、人間は自身で決着をつける力はなかった。そこで、神はその無限の愛によって、人間を許したもうたのみならず、人間が再び身を起こせるよう神自身をお与えになった。この演技こそ正義を成就するものである。これがキリスト劇の秘密であった。・・・そして、
 
 この宇宙のあらゆる物質は、神によって創られた力、すなわち形相力による。あらゆる動植物の魂は星星の光の運動が引き出したものだけれど、人間の魂には、神が息を吹き込んで、神(至上善)を慕うように創ったのだ。・・・よく解らないけど、そうなのですか。

 まあともかく、人類史において、人間に理性が突然目覚めた、そしてもっとも感受性が鋭くなった青春時代に、キリスト磔劇を目の当たりにして胸に深く刻まれてしまった。その後、ユダヤ人のある一派が、自分たちの神を巧みに利用して歴史を創った。その中心問題は決して解けない方程式だったのだ。世界を映し出していたオズの魔法使いは結局ばれてしまったが、三位一体の謎々はまだ誰も解いた者はいない。1900年の後、「真のキリスト教徒はキリストただ一人であった」と謎めいた言葉を残して発狂した哲学者もいた。

 どんなに善良な人であっても、もしこのキリスト劇を知らなかったなら、地獄に落とされていることになる。だから、プラトンやアリストテレスなどギリシャの哲人たちは、みな地獄にいる。とはいっても、彼らは何も悪事を犯してはいない。だから地獄にいるとはいっても、辺獄(リンボ)にいる。ダンテがあれほど慕ったホメロスでさえもリンボにいる。

 しかし、ダンテはやはり詩人であったと、小生は感じる。彼がどんなに中世的神学秩序を守ろうとしても、むしろそうすればするほど、彼の詩的創造力はその秩序をガタピシいわせている。そういう意味で、彼はすでに開放された新しい人間である。

 それにしても、『神曲』ほど、心の奥深くへ、地獄の底から天上の世界の果て、星星の世界まで、全宇宙の素材を駆使して物語った壮大なファンタジーを小生は、いまだ他に知らない。


     


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『神曲』 1

ダンテ作『神曲』というと、なにやら厳めしい、暗いキリスト教文学と想像するかもしれない。しかし、読んでみると、じつに面白い、奔放な想像力の傑作詩編だと感じた。むしろ、小生にはJ.ヴェルヌの『地底探険』やA.クラークの『地球幼年期の終わり』などのSFファンタジーを連想する。

そもそも神曲とは森鴎外の名訳であって、ダンテのイタリア原語では『Commedia』つまり『喜劇』であるという。たしかに、これが書かれた当時、1300年ころのフィレンツェで暗躍した人々が実名で登場してくる。彼らは、聖書やギリシャ神話などの登場人物と共に、地獄や煉獄や天国で、悔悟の涙を流したり、王党派と教皇派との対立、闘争について語ったり、いずれ現世に戻るべきダンテに頼みごとをしたりする。

 地獄、煉獄、天国にはそれぞれまたいろいろなレベルがあり、極めつけは、地獄の谷の最下層の状況だ。

「いま詩に歌うのも恐ろしいが、
 私はついに来たのだ、
 ここでは亡霊たちはみな氷漬けにされ
 ガラスの下の藁みたいに透けて見える。
 ある者は横たわり、ある者は起立し、
 ある者は頭で、ある者は爪先で立っている。
 そしてある者は弓なりに顔と足とを
 向けあっている。」

声も出ないほどの恐怖に怯えつつ先に進むと、彼はついに悪魔大王を見る。この巨大な帝王が氷地獄を創っている。この大王は色の異なる三つの顔と三つの巨大な対の羽をもっていて、羽を動かすごとに寒風が巻き起こり、氷は凍てつく。恐ろしい爪と歯は罪人たちを傷つけ、血だらけにしている。中でも最悪事を働いた三人が見える。キリストを裏切ったユダとシーザーを殺したブルータスとカシウスだ。(なんでや)

この絶望的に苦しい地獄から煉獄の地平に脱出するのが、またとても手が込んでいて、イメージしにくいのだが、それがまた猛烈に大胆なのだ。彼ら(ダンテとヴィルギリウス)は、悪魔の翼が広がった瞬間に、その毛むくじゃらの脇腹にしがみついた。そして毛を伝って下に降り、地殻の間へ這入り込んだ。そこは悪魔の腰間接のあたりで、そこは地球の中心であって、そこから先は重力が反転する。だから、ここからしばらくはダンテは上下さかさまの感覚にとらえられる。

天頂の真下にエルサレムがあり(北半球)、その天球の反対側に(南半球)着いたというのだ。そこをどんどん昇っていくと、向こうの夕方は、こちらの朝、いつしか小川が流れ、上の方に円い孔から外に出ると、星が輝いていた。・・・となる。

そうして、煉獄に踏み入れるのだが、そこでの薄明の描写が美しい。

「東方の碧玉のうるわしい光が
 はるか水平線に至るまで澄みきった大気の
 晴朗な面に集い、
 私の目をまた歓ばせてくれた。
 目を痛め胸をいためた
 死の空気の外へ私はついに出たのだ。」

そこからアルプス越えを思わせる急峻な煉獄の山を息急きって登りつめたダンテは、ヴィルギリウスの手を離れ、天国に入る。そこでは、『未知との遭遇』のように、光の饗宴が催されている。だからここではアポロン賛歌から始まる。ここで彼は最愛のベアトリーチェに導かれ、至高点に至る9個の天球をめぐり、キリスト教の奥義を教えられる。この天国篇が一番理屈っぽい。


     

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石ヲ好ム

 小生は昔から石が好きで、散歩をする時も空や家や植物を見るだけでなく、たえず面白い石はないかなと道端に注意しながら歩く。どこか旅行に行ったら必ずその地の石を持ち帰る。そして採取場所と日付を書きこむ。友人が旅行に行くからお土産は何がいいと訊かれると小さな石を拾ってきてくれと言う。だからいつの間にかけっこうな石持ちになってしまった。

 いまこれらを写真に撮って整理しようというついでに、ここに少しだけ紹介したい。

   天橋立2個
 これらはつい先日行った天橋立を歩いているとき、その海側の砂浜で拾ったもの。右はちょうど鶏卵の大きさで、花崗岩に見えるが、こんなに円くなるまで、いったい何千年・何万年のあいだ波に転がされていたのだろうと思う。
 左は、ひょっとして細石(さざれいし)ではないかと思う。違うかもしれない。表面をよく見ると貝やイソギンチャクのようなものの付着した痕がいくつかある。細石と言えば、有数の産地である岐阜県でとれたモノを以前に知人から貰ったはずだが、どこへ行ったか、家じゅう探しまわったが見つからない。大ショック。


   知多海岸石2個
これは知多半島の海岸で拾ったもの。よくあるパターンで、石が海辺の虫によってきれいに穴が穿たれている。右は鉛筆立てにしている。


   4種の石
 左上は御嶽山の頂上付近にあったもの、左下は鹿児島の海岸で拾ったもので、ものすごく軽い。右上は土佐桂浜産。右下の黒灰の石は、どーってことないそこらに転がっているようなフツーの石だが、25年くらい前か、母が春日大社の旅行から帰ってきて、「あんた石が好きやろ」と言って、小生に土産としてくれたものだから、とても捨てることはできない。


   パルテノン石
 左はギリシャのオリンピアの遺跡で、右はパルテノン神殿で拾った大理石。


   薄墨桜石
 これは岐阜県根尾村の有名な薄墨桜のすぐ横の露店で300円で買った菊花石。何日も布でこすっていたら綺麗になった。

   屋久島石
 これは屋久島の安房の海岸で拾ったもの。よくあるけど、ちょうど二種の層の部分が一つの石になっていて面白い。


   阿蘇・高千穂
左は阿蘇山、横から見ると赤色と灰色と二層になっている。右は高千穂産、ここの石はすべて直線的にシャープな割れ方をしている。


   宍道湖・本居
 左は宍道湖、右の白石は本居宣長の奥墓の前で見つけたもの


   紫式部石
 これはわが家の近くで散歩中拾ったもの。着物姿の女性に見えるでしょ。 銘 紫式部

 
ムーア石1ムーア石2ムーア石3

 この艶のある黒石は、わがコレクションの中で最高のものだ。親戚から貰ったもののような気がするが、入手先はなぜかハッキリした記憶がない。いわゆる那智黒だと思うが、自然石にしては表面がきれいすぎる。以前の持ち主が磨いたのか? 何が最高って、これほどの〈完璧な〉形はないであろうと思う。どう考えても、これほどの素晴らしい形はない。強いて言えば鞍形だが、どこからみても黄金比率というか、根源的な形というか、見れば見るほどに自然の奥儀に誘われる。これに較べたら全き球は恣意的な抽象的な完全性にすぎない。これは、正円の球に較べるとはるかに形として出来ている。ある芸術家が造ったのではないかと思う。 銘 ヘンリームーア


   矢じりなど

 数年前ある親戚から倉の隅に眠っていた大量の石をもらった。御先祖がやはり石を集めていたそうだうだ。ここには黒曜石、石器時代の矢じり、水晶、鍾乳洞の石筍などがある。他にも、知らない変わった石が山ほどある。


   雲母
これは雲母。御先祖が明治時代に北韓(今の北朝鮮?)で拾ったと裏に書いてある。妻の曾祖父は日韓併合前夜、明治43年ころからしばらく朝鮮の京城(今のソウル)にて勤務していた。


 こんな瓦の断片も残っている。
   正㤗瓦
裏にはこう書いてある。「明治45年2月22日 紫宸殿東側ニテ ○○○○(妻の祖父の名前)


 そして当時の日本や朝鮮のものらしい瓦などがたくさんあったので、しまっておいても面白くないから、玄関先の庭を華やかにし、毎日見れるようにした。

   庭瓦
   

 これも同じくその御先祖が、明治時代に拾ったもの。
    明治石


 左の白い石には、「明治38年2月5日父ニ□ヒ芸陽八木梅林ニ遊ヒ其傍ラノ河沙ニ於テ得之」と書いてある。たぶん妻の祖父の兄が書いたものであろう。

 右の赤石には、「明治辛卯(これは明治24年1891年)新嘗祭日(?)片岡兄登鞍島山得山嶺(?)此乃□□行之記念」とある。これを書いたと思われる妻の曾祖父は、まさか100年以上の後に、ひ孫の旦那が愛でてくれるであろうとは露ほども思わなかったに違いない。

 まあ、ちょっと変わった石を探して持って帰り、愛でる楽しみは安上がりだし、散歩や旅行をいっそう楽しくしてくれるし、しかも飽きることがない。

 しかし、石に興味がない家族にとっては、こんな大量の石が残されたら迷惑じゃないの、って声が聞こえる。そうだな、こんな道楽、注意しなきゃ。

   楽石注意、楽石注意(笑)



     


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真実と動き

 偽問2の系2

 われわれがふだん見ているところの世の動きは、真実在ではなく、虚像である、とプラトンは言う。あのギリシャの彫像の作者たちは一瞬の真実在を捉えようとしているようにも見える。ギリシャ人にとって、永遠とはエーゲ海の上の幻のような神々のものうい瞬間的な世界なのであろうか。

 それにたいして、キリスト教においては、永遠は絶えざる変革、絶えざる倫理的追求、絶えざる自己革新というダイナミックな動きである。彼らにとって、むしろ真実在とは動きであって、ほんらい形象は不要である。

 さて、われわれには第三の道が開けている。アキレスが亀を追い抜く。これをアキレスと亀だけに注意せず、全体像の変化として捉えると、どうなるか。たとえば画家ならそう考えるであろう。絶えざる変化を認めつつ、しかしそこに倫理的要素を混じえず、ありのままに肯定する。そこには一部を切り取るような恣意的な自己というものが消えている。むしろ自己も全体の中の一部として溶け込んでいる。ここには永遠なるものは問題にならず、無常が取って代わる。

 この自己滅却、爽やかな謙虚は、われわれ日本人が長く育んできた感性である。われわれには、キリスト教のような倫理的強さはないであろうし、ギリシャの現実から離れた晴朗な神々の世界も持たないであろう。しかし、われわれは動きや変化をそのまま〈無常〉として受け取り、その世界に身をゆだねる。そこから豊饒なる美の世界が生みだされる。「世界は美的現象として是認できるか」という西洋の問いは、わが国において自然にとうの昔に解決されている。
 

       


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昭和の日 2

 ああ〈昭和の日〉
 もろびとをしてこの時代に
 想ひをいだかざるをなからしめよ

 明治よりこのかたわが貧しき國は
 世界に伍さんと大陸に足を踏み入れ
 列強の批難を浴びぬ
 しかはあれども民草はみな互ひに
 思ひやり美しき言葉を話し、
 家を思ひて生業にいそしみ、
 日に夜をついで働きけるも

 ―いかなる星のもとなりし
 大いくさの始まれり
 若き兵士らは国を守らんと
 次々に山を駈け海をめぐりて
 命を捨てぬ 銃後の民草みな
 おのもおのもに汗流しけるが
 つひに力尽き国滅ぼされたり

 ここにわがスメラミコトは民草を
 守りたまはんとご一身をなげうち
 くにぐにを巡りたまひき
 などてスメラミコトは人と
 なりたまひしといふ声あれど
 人となりたまひてこそ民草の
 こころ動かさざりしや

 かかるがゆえに人人ふたたび
 胸を張り上を見つめ互ひ互ひに
 手をとりあって勤めをはたし
 やうやくに国土は立ち直りたり
 民草飲食豊かに絶ゆることなく
 日に日に弥栄えゆき

 ―いつしか平成の世となり
 人みなこぞりて足るを忘れ
 さらに物欲しげなる様子にて
 遊楽をきはめんと競ひあひ
 欲念の留まるところを知らず
 つひに浅ましき誇大な夢は
 はじけりて泡と消えにけり
 人々袖振り臥しまろび
 足摺しつつ歎けども
 還らぬは邯鄲の夢

 しかすがに浮かれ心は
 なほ消えやらず
 いにしへを振り返ることはなく
 おとなこどもも上も下も
 祝日を休日と取りたがへ
 さらなる逸楽をもとめつつ
 黄金週間などとうそぶきあひ
 安んじたるこのありさま

 わが父母よ 祖父母たちよ
 いかさまに思ほしめせか
 ―ああ〈昭和の日〉有名無実と
 なるぞ悲しき



       


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偽問2の系

 あらゆる動きはシンプルなものである。アキレスの歩みも亀の歩みも、現実の動きとして見た通り感じれば、分割できないシンプルな動きである。

 それを、量として、つまり平面の上の線として還元してしまうのが、幾何学であり数学なんだな。科学が成功するのは、その還元があってこそだ。

 それで思い出すのが、生物の進化の科学的アプローチだ。生命というのは、ほんとうに不思議だ。この地球上のあらゆる生命は種に分化して、それぞれの種は闘争したり、協力したりして、種としてとにかく生き延びようとしているように見える。細菌や昆虫や植物のみならず、あらゆる生き物は、あの手この手で、驚くほど手の込んだやり方で、なんとか生き延びようとしているように見える。

 おそらく地球上だけでなく、ほぼ無限の広い宇宙の幾つかの条件のよい惑星上であれば、同じように生命は其の惑星に住みつき、カビのようにまとわりついて、種として分化することによって、何とか環境の変化にも耐えて、生き延びようとしているに違いない。いったん生命がある所に生きる場所を見つけたら、何とかしてこの物質世界で繁栄しようとする。そう思うと、何のためにいったい、と不思議を通り越して、呆然とするしかない。

 で、この地球上にいる生物種の発生なのだけれど、例えば、蟻でもカラスでもなんでもいいけれど、コウモリを取り上げてみよう。コウモリはこの明るい世界で餌をとり合うなどの闘争を避けて、暗い洞窟に住む場所を見つけたという。ある時とつぜん洞窟にコウモリという種が何匹か無から発生したとは考えにくい。ある動物から分化して出現したのであろう。

 では、前コウモリの目が退化したのと、超音波装置を作りだしたのとどちらが先なのであろうか。ふつう目が退化していったから、それに代わる超音波装置を作りだしたと考えるであろう。なんで目が退化したかというと、暗いところで住むようになったからだ。それにしても、それぞれの時期があまり異なると死滅してしまうから、おそらくそれら、つまり暗い所に住む事と目が退化する事と超音波装置を持つこととほぼ同時でなければならない。たまたま出鱈目に重なったなどとは考えにくい。

 そして、一口に超音波装置と言っても、超音波を発する器官と、跳ね返ってくる超音波をキャッチする器官と同時に作らなければ意味がない。たまたまそれらが別々に偶然、意味もなく体に出現したなんて考えられない。つまり、それらは目的をもって全てが変化してきたとしか考えられない。少なくとも振り返ってみれば、そう見える。われわれは、この驚きから決して逃れることはできない。科学の分析がさらに精緻になればなるほど、むしろわれわれの驚嘆は大きくなるであろうと、小生は信じる。

 すべての生物の分化は合理的で、その変化は全体としてみるとシンプルなものである。それに対して、その流れを、科学的アプローチは細かく分断して、何枚もの画像を描く。その過程は複雑である。いったん微分したものを、後に積分して、動きを捉えたつもりになる。しかし、現実の動きそのものが抜け落ちている。ダーウイニズムとはそのようなものである。

 われわれは絶えず、現実の動きを認知する能力をもっている。その動きそのものを数学は捉えることができない。そして、われわれは逆に、動きそのものを一段と深く捉えようとする能力ももっている。それは動きを量でなく、動きそのものを、つまり質として感じる能力ではなかろうか。いわゆる芸術の源泉もここにあるのではないか。


     


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うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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