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土偶ファン

小生は最近、土偶が好きになった。今は好きを通り越して感嘆している。少し前に日本に来ていたフランスの〈ローセルのヴィーナス〉を見に行ったのだけれども、これはとても古く、約25000年前のものであるという。これは岩を削ったレリーフだが。

ローセロのビーナス


 動物の角から水を飲もうとしているところか。とても写実的で、乳房は垂れ、腰回りが太い、じつに立派な女性のレリーフだ。いったい〈女性〉とは何か?

 やはり20000年 BC年ころに創られたという小ぶりの女性像が、ウイーンにある。「ヴィレンドルフのヴィーナス」と言われるものだ。

ヴィレンドルフのヴィーナス


 これは、ローセルの物よりも一段と女性を強調している。頭が仏像のらほつを並べたようで面白い。頭部はこれで充分なのだ。これも石の彫刻である。〈女性〉とは創造の神でなくてなんであろう。

これなどに較べると、長野県出土の土偶〈縄文のヴィーナス〉と名付けられた造形美には度肝を抜かれる。縄文中期っていうから、だいたい3000年 BCか。
 
縄文のヴィーナス


 躯幹は極端にシンプルに十字形とし、下肢をどっしりと、臀部から大腿を、触らせてもらいたくなるほどむっちりと膨らませている。乳房も象徴的突起で済ませている。頭はヘアースタイルか被り物のデザインか分からないけれど、これまた象徴的かつ表現的であって、顔があまりにも初々しい。ここには、われわれが決して真似ができないようなものがあるのを感じないではいられない。

 これに対し、青森県は〈東北のヴィーナス〉をもつ。

東北のヴィーナス

これも3000年BCあたりだが、もう少し若いと聞く。脚が長く、腰が後ろに張って、パンタロン姿のパリジェンヌと言いたくなる。上肢と顔の詳細をいっさい省き、頭部は豊富な髪を単純に表し、ケープのごとき胸の抽象化はあまりにも見事で、見れば見るほど、その洗練はパリジェンヌを越えている。

もう一つ、長野県出土の〈仮面の土偶〉。これを出さずにはいられない。縄文後期というから2000年BC以後か。

仮面のヴィーナス

 これは、あまりにも力強い。もう参ったとしか言いようがない。見れば見るほど、生みだす力そのものを感じないであろうか。ふと〈ムスビのカミ〉というコトバが浮かぶ。

 縄文時代の土偶は、他にも宇宙人のような、チベットの神とデメキンと交雑したような、いろいろな言語を絶する土偶がある、ネットで見ることができるから、みなさん、〈黙ってゆっくり眺めて〉見るといいよ。というのは、われわれは、どうしても頭で理解しようとしてしまいがちだからだ。
紀元前の人たちが自然の力の前でどのように感じて生きていたかは、決して頭から入ってゆくことは出来ないように思う。スターウオーズではないけれど、信じて感じなければならない。これは何を表しているのだとか何とかかんとか考えたくなるような、ちっぽけで閉鎖的な知性の介入を拒絶できれば、遠い昔、人々が「カミ」という言葉を生みだした、ある非常に充溢した現場に、ひょっとして触れることができるかもしれない。そんな風に想像する。


       

        
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テーマ : art・芸術・美術 - ジャンル : 学問・文化・芸術

師走初旬風景

  
  家族して水槽洗ふ寒の日に
      おどろくメダカの動きのおそし



  マーラーの二番は冗長さりながら
      あれも一つの慰めと認む



  昨夜来落葉の積もる通学路
      子供らの蹴って後の静もり



  一面に落葉散り敷く前の道
      その暖かさをそっと歩めり



  木枯らしの合間を抜けて見える空
      その青の巧妙なたくらみ



  庭師切る枝葉を集め大奮闘
      家族も庭も晴れ晴れとなる



  CTやあっという間の検査にて
      はかなき夢を見る暇もなし



  西欧の百年前にまいた種
      実りのすぎて手もつけられず



      


     
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歌集『遥』 選6

 昭和20年、日本の大都市は、おおむね焼け野原になった。そして占領軍が入ってくる。昨日まで「皇国のために命を捨てん」と言っていた学校の先生も、突然「今日から日本は民主主義の国になりました」と言う。まだ本当に戦う気構えであった純粋な若者たちは、自分たちが信じていた価値が嘘であったと教えられた。可哀そうに、彼らはどんなにか傷ついたであろう。この中には、ついにヤクザ仲間に入ってしまった者もいたと聞く。なんと心が痛むことか。

 民主主義と邦訳されたdemo-cracy(じつに気持ちの悪い単語だ)をもたらした米軍は日本を占領すること6年半に及ぶ。その間、日本人の言論の検閲は徹底していた。ここにわが家に残る親戚の手紙がある。

 検閲2  検閲1


昭和21年の手紙。封筒の底には「OPENED BY…MIL.CEN.-CIVIL MAILS」とのシールが貼ってある。一般の主婦の手紙までかくのごとくである。ましてや、公共放送・出版物などはGHQの意向に沿うもの以外は、すべて排除されたのだった。「日本は軍国主義の悪い国であった、無謀な戦争を仕掛けた、今や正義のわれわれが民主主義を与えよう。」というような世論操作は見事なものであった。

なにせ当時、日本人は食うや食わずの状態だった。そんな状態の彼らの頭に、朝から晩まで、彼ら戦勝国のプロパガンダが、呪術師の叫びのようにがんがん流されて、マインドコントロールが成功しないはずはなかった。

 しかし、とにかく生きなければならない。日本人はいつまでも嘆いていてもしようがない。どうせ生きていかねばならないなら、前向きに生きるにしくはない。日本人はとても素直だ。蟻が壊れた巣を直すように、みなが協力して一生懸命、がれきを撤去し、新しい家を建てた。

 しかし、彼ら欧米人の言う民主主義とは物質的利己主義、その自由追求権の保障ではなかったか。それは確かに人間の真の在り様の一例であると小生は思うが。だが、それはどことなく、日本人の伝統的心性にはそぐわないのではあるまいか。民主主義というものには、空高く風に舞う木の葉のように観念的で、どうもわれわれのじっさいの日日の生活感情とは相容れぬものがある…と後になって気付いてはみたものの、われわれの頭は混乱し、今やどうしたらいいのか誰にも分からない様子である。

 まあそういうことで、とにかく、さだ子は、いつまでも敗戦を悲しみ嘆いていても、しようがなかった。とにかく生きねばならない。昭和20年、夫の帰国と共に、主婦として前向きに生きようとする。ほどなく、幸運なことに彼女は懐妊し、新たな生きがいが湧く。

   清き児を恵み給へとひたすらに
     母となる身は祈りつ暮す


   母の名に生きる日日をば想ひつつ
     針もつ午後の陽ざし明るし


   早咲けるトマトの花を数えつつ
     夏きたりなばと語りあひけり


   胎動に喜びの声あげたまふ
     夫の瞳の明るき夕べ


 昭和21年8月、長女を出産す。

   わが息の絶えんかと思ふ苦しみも
    産声聞けば夢のごとく消ゆ<


  慕はれる母としならん一筋に
     乳ふくませつ思ふ夏の日


 敗戦直後、この年から昭和25年にかけて、日本にベビーブームが起こる。父母になったこの世代は、責任感と希望に燃えて、地に足をつけて一歩を踏み出したはずなのだが…。


        

        
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ヴェルディ『オテロ』

 ヴェルディのオペラ作品の中でもっとも好きなのは何でしょう、とマニアたちに尋ねてみたら・・・。やっぱり『ナブッコ』ではないかしら、わが想いは黄金の翼に乗って、イタリア万歳に涙よ、あるいは『椿姫』に捧げし歌よ、いや『トロヴァトーレ』の例のウン・ジャカ・ジャッジャに昇天だわ。いや、『リゴレット』だよ、いや『運命の力』ですわ。忘れちゃいませんか『アイーダ』に決まりですよ・・・なんて、結局なんでもいいの、人それぞれなのでは、ありませんの。

 では、小生は、変わった視点から一つだけ『オテロ』を取ることにするか。いや、断然『オテロ』だ。先日たまたまこのオペラ映画を見たからね。でそのとき、誰が何について言った文句か忘れたけど、「耳におけるシェイクスピアの恐怖」って文句を思い出したよ。

 人間という生き物の恐ろしさと弱さと救い。いやこのオペラ作品は、ヴェルディの『トリスタン』だな、聴きながら、ふとそう思ったとたん、その考えから離れることは出来なくなった。

 小生の勝手な空想だが、晩年のヴェルディは、どうしても、やはり彼の『トリスタンとイゾルデ』を創りたかったのではないかな。音楽そのものが物語(愛の死)を導くがごとき楽劇風だし…。

 しかし、両者は根本的に違ってくる。ヴェルディの愛の二重唱には、〈死への予感〉はあるが、ワグナーのような〈死への誘い〉はない。トリスタンの悲劇は、変な言い方だけど、それほど悲劇的ではなく、むしろ非常に甘美なものである。死にたくなるほど甘美である。ヴェルディの『オテロ』は非常に悲劇的で、フィナーレで死を悟ったデスデモナは柳の歌を歌う。彼女の運命はオフィーリアのそれと重なって見える。

思うに、人生とは不条理そのものであり、そのことをそのまま、ヴェルディは歌う。その根源を、いわば悲劇の中の神話性を、垣間見させてくれるのであり、そう言い方をすれば、ワグナーはむしろ、神話や民話に内在する悲劇性を派手に大写しする。

 南方と北方の違い? さあ、どうかしら。



     


     
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世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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