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良経の二首

  夢の世に月日はかなく明け暮れて
       または得がたき身をいかにせむ
 

西行のようでいて、しかし西行のようにいわば時代と対決した心の深さというものはない。ここには身分も才能も有り余るほど恵まれた若い詩人のアンニュイからの危機が迫る。ややもすれば理屈っぽくなりがちな思想歌だが、青年の素直な心がストレートに歌われていると感じる。今この歌を詠ずると、「または」という言葉の意味合いと響きが効いていて、歌の姿がすっきりしと感じられる。

   見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
       昔にかすむ春の曙


 これほど意味がとりにくい、しかし一部の粋人の心を蠱惑してやまぬ歌を他に知らない。かく言うぼくもこの歌は長らく気にはなっていて、しばしば頭に浮かぶ。

 清少納言の文体の春の曙は、現代のコマーシャリズムにぴったりな、そのイメージは明瞭・鮮烈で、瞬間に万人にそのエッセンスを理解させる。この良経の歌はまったくその反対で、その曙は茫洋としていて、空間的奥行きも不明瞭で、時間的にも現在が未来でも過去でもありうるようなものである。

 来世にも心残りがないように今の素晴らしい春の曙を堪能しよう。しかし昔見た春の曙はもっと美しかったはずだが、それはもう漠とした思い出としか言いようがない。しかし今見る春は純粋な現在のものとは言い難く、どうしても過去の記憶に沈んだ〈あの春〉の修飾を受けたもの、つまり現在の知覚は思い出の力によっている。あの過去は、あの思い出は何だったのだろう。失われた時は〈存在〉していて、現在に呼び掛けている。しかしこちらからそれを求めることは不可能なのだ。
ぼくの勝手な解釈。

藤原良経(1169~1206) 『新古今和歌集』仮名序を執筆、巻頭歌の作者。従一位摂政太政大臣。亨年38.


     

     
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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

家隆の二首

  桜花夢かうつつか白雲の
       絶えてつれなき峰の春風


 本当に桜花であったのか。あれは夢ではなかったのか。いやあれは白雲だったに違いない。というのは、それがどこかに消えてしまったのは、風が運んでいったからだ。この風。私の頬にふれる峰から吹いてくる風。この感触は夢ではない。そしてこの春風は私の想いになんとそしらぬ様子で吹いていることか。いや、つれないのは雲と風の共謀か。それにしてもあの桜花の幻影は眼の底にまだ揺曳している。この歌の調子がとてもよい。「つれなき」が「常なき」となっている伝本もあるが、「つれなき」のがいいと思う。

   旅寝する花の木蔭におどろけば
       夢ながら散る山桜かな


 旅の途中、桜木の下で寝ていて夢を見た。その夢は満開の桜が突然散る夢だったのだ。その夢にハッとして目が覚めた。見ると桜はかすかな風に散り始めていた。夢も現も花は散るのだが、〈おどろけば〉という言葉が効いていて、ハッとして目が覚めて見る景色の万華鏡的効果がこの歌の魅力である。

 この歌からただちに連想する歌は、『平家物語』の忠度の〈旅宿の花〉

  行きくれて木の下蔭を宿とせば
     花や今宵の主ならまし
 

これは忠度が敵兵に討たれた後に、箙から発見された歌であって、忠度のそして平家の運命を予見している。源平の合戦という日本中が血で染まったような、今なおわれわれ日本民族の心の底に暗い主調低音となって響き続けているような大きな出来事。これに耐えて生き続けてきた当時の人々のよりどころとなったのは、もちろん仏教もそうであろうし、それより小生は大きな二つの同時代の文学、『新古今和歌集』と『平家物語』だったと思う。


       

       
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経典の音楽

平安時代の初めの円仁という偉いお坊さんが、阿弥陀経を読誦(どくじゅ)するときに、どうも声音だけでは面白くないと思って、尺八で伴奏させた。ところが、このお経の中の一節「成就如是功徳荘厳」という所が、うまく吹けない。読誦と合わない。それで、比叡山にあるお堂の南東の扉にむかって吹いて練習をさせていたら、空中で音がした。そしてその音が告げるには、「如是」という部分に〈や〉という音を加えて「如是や」と誦えよと。それで、うまくいったようで、以後〈や〉を加えて誦えるようになった。

 これは、『古事談』にある話です。この話からあらためて思うことは、経典を読むのに、ただ読んでいてはいけない、音程を上げたり下げたり、引きのばしたり詰めたり、抑揚をつけて、場合によっては読み方を変えたり、要するにそれらしい、そのお経の内容にふさわしい歌になるように詠むのがよい、ということですね。

 思いみれば、イスラム教の町では至る所で、明け方などに、あのコーランの一節と思われる文句が歌われているのを、テレビで耳にすることがよくありますね。いや、ぼくはあの歌がとても好きです。アザーンていうのかしら、じつにうっとりさせる、よい声で、われわれの耳にはやはり中東のリズムに聞こえますね。きっと祈っている人は、心から祈っている積りでしょうが、それが歌(音楽)に聞こえるのですね。歌はほんとうに嘘をつかないなと思う。つまり、歌っている内容は知らないけれど、あの節回しはあの辺りの民族のものだな、って思う。ということは、ああいう節回しでもって表現せざるを得ないことこそ、あの民族の魂なんだな、と思う。

 ユダヤ教やキリスト教の賛美歌なんかも、じつに素敵な音楽に聞こえる。とくにキリスト教音楽は、多様に展開して、いわゆる西洋音楽になりますね、その一つのmilestoneは、有名なバッハの「マタイ受難曲」ではないでしょうか。

 ところで、お経ではないけれど、神話はどう語られていたのだろうと想像する。ホメロスの物語は、どういう風に語りあるいは歌い継がれていたのだろう。とても知りたいのは、わが国の上代の人たちは、『古事記』の神話をどのように語り継いでいたのだろう。冒頭の「あめつちの・はじめのとき・たかまのはらになりませる・かみのみなは・あめのみなかぬしのかみ・つぎに・・・」これをどういう風に語って(歌って)いたか。ああ、テープレコーダーがその時代に無かったのが残念だ。

 上代の人たちは、神話に関して、文字や意味の分析に頼って衰弱してしまったわれわれとは全然違う、もっと豊富で直接的なものを感じて生きていたに違いない。文字という、いわば余計なモノを必要としない、語りだけで充溢していた生、日常そのものが感嘆であるような生を、大昔の日本人は生きていたに違いない。

少なくとも、そのような想像をせずに『古事記』を読んでも、その意味だけを捉えようとして読んでいても、それこそ何の意味もない、間違いだらけの捉え方になる。現在のわれわれの陥り易い読み方を捨てて本文に当たるのは何と難しいことかと、30年以上をかけて『古事記伝』を書いた本居先生も口を酸っぱくして仰っています。



     

     
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葛城行き4

二上山に沈む夕日に西方極楽浄土を見るのなら、考えてみれば、この旅は、西方極楽浄土に始まって、またそこに終わった感がある。というのは、僕はまったく忘れていたが、四天王寺の西門にある例の鳥居だが、あれは寺がある東から西の海へ入り日を拝むためであった。なるほど、『弱法師』にある、「極楽の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや」と言われるほど、中世では、すでに四天王寺は、洗練された西海極楽浄土への入口として有名であったのだ。

あの時代、日本の玄関は西に向いていた。日本人は西からやってくる渡来文化にいかに憬れていたであろう。仏教は中国から伝わったというものの、もとはチベットの向こうのインドからきたものだ。西方極楽浄土への憧れは、われわれが想像するよりは、もっと芳しい、一種の華やかさを伴っていたのではないのかな。

折口先生は語る―

わが国には、仏教が入ってくる以前から、日を拝む信仰があった。その昔、女たちは野遊び・山籠りという風習があって、どこと言うことなしに、東に西に日を追って廻っていたが、最後に行きつくところは、山の西の端、西の海に沈む日輪を拝んで見送った。

それが、仏教が入ってきて、その経典の影響は深く、いわば習合がおこって、いつしか洗練された形式、日想観を生んだ。ましてや彼岸中日ともなれば、日輪への憧れは頂点を極めた。そこへ天台の僧源信が「山越の阿弥陀図」を描き、それは彼の生まれ故郷の当麻と切り離せないものがあった。そのようなことから、中将姫の「蓮糸当麻曼荼羅」の伝説が生まれたらしい。

     憧れは 彼岸を待たぬ 病かな



     


     
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葛城行き3

明くる朝、朝食を済まし、橿原神宮へ参る。以前にも訪れたことがあるが、こんなに広かったかなと思う。

   橿原神宮


家内安全を祈願し、改修の募金一口二千円を寄付し、大池を見る。遠景が墨絵のそれのようで、静かで、どことなく古代的だ。沢山の鴨がピーピーという鳴き声を立てながら、水面を滑るように、こちらに向かってやってくる。餌でも持っていればやるのだが。

   鴨池


社務所の横にちょっと変った大きなクロガネモチの木がある。根元のところどころに小さな赤い実が落ちている。数個拾って、後に家の庭に植えた。たぶん生えてこないだろうけれど。

帰りがけ、手水所で、熟年というより老年に近い夫婦が手を清めていたが、奥さんの方が杓を口に持って行ったので、こうして漱ぐのだと教えてやった。へえ?という顔をしたものの教えた通りやった。そして、「ありがとう」と言った。てっきり中国人だと思っていたら、(たぶん)日本人だった。

それから、車を取りにホテルに戻り、橿原考古学研究所附属博物館へ行った。ここはじつに素晴らしい。それこそ石器時代から中世まで、一望のもとに詳細に見渡せた感があった。文字よりも物のほうが、はるかに説得力がある。しかもわが所有する小さな謎の焼き物の正体が判った。これは大きな収穫であった。館内には案内人が何人かいて、その中の一人と楽しく話しながら、見て回ることが出来た。しかし、そのためにだいぶん時間が過ぎた。

  冬晴れに わが陶片の 謎解けぬ

 急がねばならない。自然、足は当麻寺に向かう。もう一度あの伝説の当麻曼荼羅を見ておきたかったのだ。当麻寺に続く背後の二上山に沈む夕日に憧れるあまり、ついに眼(まなこ)に如来が映った、それを蓮の糸で織り上げた布に一気呵成に描いて成ったのが西方極楽浄土を思わせる曼荼羅図であった。この中将姫の伝説は、折口信夫の『死者の書』を読んだ時から、ずっと心の隅にあった。ましてや、桜井・飛鳥を訪れたときは、自然に二上山は目に入る。そのたびごとに、気になる問題のようにもやもやと蘇った。

  夕日影 ながめて寺の 騒ぎかな 

二上山の山頂には大津皇子の墓がある。万葉集に触れたことのある人なら知る、この文武両道に秀でた伝説的な皇子は若くして処刑される。皇子はその前に斎宮として伊勢に居るお姉さん(大伯皇女)に〈密かに〉会いに行っている。皇子の妻・山辺皇女は殉死。この話は東征に向かうヤマトタケルを連想させる。


大津皇子の屍が葛城の二上山に葬られた時、お姉さん大伯皇女の作った歌(万葉165)

  うつそみの 人なる我や 明日よりは
      二上山を 弟(いろせ)と我(あ)が見む


 『日本書紀』には、大津皇子は謀反が発覚し処刑されたと書かれているが、その真相はともかく、詩文芸に優れ、剣をとっては敵なし、性格あまりにも豪胆、その上、美男で礼儀に篤いとなれば、われわれは惜しい男を亡くした、と思うと同時に、彼には不吉な運命が予定されていたと感じる。

当麻寺はとても広く、その全部を回ろうとするとだいぶん時間がかかる。とりあえず本堂の、あの曼荼羅(江戸時代の転写らしいが)を見て、とはいえ暗くてじゅうぶん見えない。しようがないので、ポスターを買って出る。それから講堂と金堂内の仏像を拝んで、帰るさ少し境内をぶらぶらしているうちに、せっかくだから中之坊という寺の庭園を拝観した。

ぐるりと書院を巡ると裏手に庭園がある。池に囲まれた島にサルスベリと思われる木がひときわ目立つ。静かだ。誰もいない。そよともしない池の面に浮かぶ変色した睡蓮の葉が、無住の侘びしさを醸し出している。唯一あちこちに真っ赤な実をつけた千両が地味な庭に華やぎを与えている。

  中之坊庭


  巡りきてふと振り返りまぼろしか
       池のほとりに立つわれを見る


もう2時だ。すぐ近くの食堂に入って、あまり美味しくないうどんをすすり、さあどうするか。

二上山に登って大津皇子の墓参りをしておきたい。ここから直接登ると、一時間半かかるらしい。今の身体ではちょっと自信がない。竹内街道沿いの駐車場からだったら30分くらいで登頂できると、昨日博物館員から聞いたから、時間的にも、体力的にも、その方がよい。しかし、このコースは帰り道からは遠ざかる。途中の道路の混雑を予想して、できれば3時までにどこかの高速入口に入りたいと思っていたが、今は2時半だ。無理である。大急ぎで登れば、ひょっとして途中で息苦しくなるかもしれない。二上山は断念して、帰途に着き、途中余裕があれば長谷寺にでも寄っていくか、という考えが頭をよぎる。

しかし、今回は葛城だけに絞るべきではないか、しかももう二度と訪れることはなかろう、はやり無理をしてでも二上山へ登っておくべきだ、と考え直した。
当麻寺から10分ほどで街道沿いの登山口駐車場に着く。出来るだけリュックを軽くして、さあ出発。

  二上山登り


初めのうちは軽快に登る。しかし、このペースが30分も続くわけがない。誰にも遇わない。ときにこの道で大丈夫なのだろうかという不安がよぎる。一人の女性が降りてくる、路を尋ねると、これでいいと答える。もう少し行くと一人の男性が降りてくる。声をかけても、黙って通り過ぎる。結局、二上山の雄岳・雌岳の間の「馬の背」というくびれの所に着くのに30分かかった。

  馬の背

さあ、ここからが大変だ。高い方の雄岳は左、すぐ近くらしい雌岳は右。しかし、ここまできた以上、大津皇子の墓がある雄岳に登頂しなければならない。長い休憩は反っペースを狂わす。息が鎮まるのを待たず、雄岳を目指して歩きだす。やはり急激に苦しくなってきた。初めのうちは30歩歩いて、1分休憩、最後は10歩歩いて休憩。死の直前の苦しみに耐える練習になってちょうどいい、と自分に言い聞かせて頑張った。予想より早く10分余りで頂上に着く。あまりパッとしない小さな神社がある。剥げかかったペンキで「葛城坐二上神社」と書いてある。若いカップルが拝んでいた。肝心の大津皇子の墓はどこだろう。さらに向こうに下り道がある。たぶんそちらの方にあるのではと見当をつけて行くと、あった。

   大津皇子墓


なるほど、少し樹木が邪魔してるけれど、ここから飛鳥一帯はすぐ眼下にある。奈良盆地のほとんどを見渡せる。なぜ彼の墓をここに移したのか解った。


   飛鳥全景

   大いなる 魂(たま)よこの地を 見つづけよ

ゆっくり墓を一巡し、記念に小石を一つ拾って、雌岳に急いだ。雌岳の頂上には、石のベンチが円を描いて置かれ、そのまん中に石の日時計のようなものがある。

   雌岳


ここで、熟年夫婦に出遭った。二人はよくこの山に登りにくるそうだ。散歩にちょうどいい距離だという。なんと健脚なんだろう。僕がこれから駐車場まで降りて行くと言うと、登った道とは違う道を教えてくれた。下山途中で、遠くに大阪湾の海が微かに見える。また大きな石窟の祠の跡(岩屋)と石切り場の跡を見た。この辺りは、奈良時代以前から、古墳に使う石が取れたそうである。岩を切った跡や大きな石塔が散在している。

彼らに礼を言って、駐車場手前で別れた。後は、帰るだけである。とにかく二上山に登ったという満足感が体に満ちていた。奈良盆地を横断する高速道路を飛ばした、右後方に沈む赤い夕日を感じながら。

  二上山全景


やはり、予定より1時間くらい遅れたせいか、途中から高速道路は大渋滞の予報、それで一般道に降りたが、やはり渋滞。この辺りで、正面やや右手に月が出てきた。まんまるい大きな、金色がかった、『サロメ』にでてくるような気持ちの悪い月である。時おり、小さな雲の断片が月を過る、その一瞬、雲の周辺が金色に照らされて妖気を放つ。こんな不気味な光景にさらされながらも、快い疲労感に浸っていた。

   わが魂の 炎は月に 吸いとられ

         

         
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葛城行き2

一日目:朝8時すぎ:
名古屋出発→四天王寺(午前11時)→仁徳天皇陵、昼食→歴史博物館。午後2時までに、葛城方面(葛城山、一言主神社など)→夕方、橿原のホテルへ。

二日目:ホテル→橿原神宮→橿原考古学研究所付属博物館→(その時の体調次第で変更可能)→当麻寺、昼食→(竹内街道)二上山→午後3時ごろ下山→帰路。

しかし、実際は予定通り行かないもの。初めからいけなかった。ナビの指示通りに行ったら、大阪市内を北から南に縦断するコースを走らされたら、やっぱり渋滞していて、ここでだいぶん時間を喰った。ようやく四天王寺に着いたはいいが、こんどは駐車場にすぐには着けず、だいぶん焦った。

   四天王寺鳥居


四天王寺の西の入り口には鳥居があった。なんでお寺に鳥居があるのか、前のお菓子屋のおばちゃんに訊いたら、真西に入り日が見えるからという。ということは、この鳥居は四天王寺のためではなく、海に沈む夕日すなわち西方浄土のためにある、ということか。

  寺よりも 浄土に行きたし 冬の海

手水所で、中国人の女の子たちが、柄杓から口へ直接水を飲もうとしていたので、そうするのではなく、水をいったん手に受け、それで口を漱ぐのだよと、実演して教えてやった。彼女たちはすぐ了解して「ありがとう」と日本語で、さわやかに応えた。

これが聖徳太子の建てたお寺か、例の独特の建築様式なんだな、しかし、残念なことに、五重塔は修繕中で、すっぽりと鉄骨と布で被われていて、何にも見えない。

   四天王寺修理中


  修理日に 寺を拝むぞ おもしろき

広い境内を一周して、看板の図と説明で再確認をしていたら、そこでうろうろしている一人の白人女性旅行者がいた。五重塔が修理中で見れなくて残念だね、と話かけたら、何か恥ずかしそうに言っている。よく聞き取れないので、この寺は日本でいちばん古い部類のお寺なんだ、7世紀初めに一人の天才が居てね・・・、ところで僕はこれから車で、そう遠くない所にある日本で最も大きな御陵を見に行くけれど、もしよかったら連れて行ってあげるよと言ったら、喜んでついてきた。

駐車所の出口を出たところで、ナビをセットしたのはいいが、高速道路入り口周辺には分かれ道や交差点があって、どうしてもうまく高速道路に乗れない。隣に座る彼女の話に神経を集中させていたのも大きな原因だ。結局大きく二・三回同じ道を回り、ようやく高速に乗れた。恥ずかしく大汗をかいた。まあ、事故を起こさなかったからよかった、と考えよう。

  緊張で 大汗をかく 寒の路

聞くところによると、彼女はフィンランド人だ。学校ではまずフィンランド語とスウェーデン語を、次に英語を学んだ。どうしてそんなに英語が流暢に話せるのと訊いたら、英語の映画をよく見たとのことであった。(学校時代、フィンランド語字幕付きの英語の映画をよく見た?と)

御陵と思われる松林が見えてきた。うまい具合に、仁徳天皇陵のすぐ前の専用駐車場に入れることができた。しかも、そこではヴォランティアのガイドが何人かいて、いろいろ図を見せて説明してくれたのが有り難かった。ぼくは彼女に得意の独断的・自己流の英訳をしてあげるだけでよかった。解ってくれたって? さあどうかな。

   仁徳天皇陵


  厚着して 説明を聴く 御陵前

それから、ガイドに奨められるままに、前にある博物館に入った。展示物をゆっくり見て、ここの古墳群の映画を見た。世界遺産登録に精出しているようだ。二時から始まって、15分くらいで済んだが、まだ昼食もとっていないし、出来れば他の歴史博物館も行きたいと思っていたが、もう時間がない。すぐ横のカフェに入って、飲み物を飲みながら、彼女と話をした。彼女は日が暮れるまで、小生の行くところに付き合おうとしているかのようであったが、小生は、葛城は大阪からはちょっと遠いし、一人でゆっくり歩き回りたい、申し訳ないが、ここでお別れしなければならないと、説明した。もちろん最寄りの駅への行き方は、カフェの人に訊いて教えてあげた。

   道連れと 別れていそぐ 冬の午後

遅くなった。真っ直ぐに葛城に向かった。まず葛城山にロープウエイで行こうとした。しかし、駐車場がだいぶん乗り場から下の方に離れたところしかない。ロープウエイは動いているようだが、ぜんぜん人(ひと)気がない。何だか、乗る気が失せた。それで一言主神社に参った。ここには葛城一言主大神が祀られている。その昔、雄略天皇ですら、その御前では畏まったほど神威があったが、いつしか(平安時代に入って)仏法呪力を体得した役小角(えんのおづぬ)にこき使われるほど、力を無くしたという。

   一言主神社


   山の神 冬籠りして 時をまつ

それから、その辺りをぐるぐる廻り、冬の夕闇が迫る葛城の空気を吸った。橿原のホテルへ行く途中、葛城市歴史博物館に寄った。

   大和路の 独り歩きに 暮迫る

橿原神宮駅のすぐ近くのホテルに着いたのは、六時を少し回っていた。辺りは真っ暗で、駅前の広場も森閑としていた。しばらく部屋で休憩をしてから、食事に出た。しかし食堂は一軒もない。しようがないので、駅を一巡するように歩いた。しかし、車は走っているものの、明かりがあまりなくてしんとしている。ようやく駅の向こう側に一軒麺類の店があったので、ちょっと迷ったが、さらに歩いても他の食堂は見つからないかもしれないと思い、ここに入った。お客は一人いるきりである。小生が入ってしばらくして、その客は出ていった。お客一名にたいして店員二名とはさみしい限りだ。駅の近くで、こんな帰宅時間に、いつもこんな調子なんだろうか。

   とにかくに 夕餉を食し 安堵する

  
         

         
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葛城行き 1

あなたの〈心のふる里〉はどこですか、と尋ねられたら、さてどう答えよう。難しいところだ。ぼくのような遍歴の持ち主なら、一般には、自分が子供のころ育った田舎の町と答えるべきであろうが、ぼくは、どうも素直にこの町だと言えない。もちろん、この田舎の町は、ずいぶん昔と変わったとはいえ、中心の東海道沿いの家々はほとんど昔のままだし、周りの山山や川の形や色は同じで、見れば懐かしいし、しばしば想像裡に思いだす。

 祖母や両親は、死ぬまで(病気になるまで)、この古い家に住んでいた。中庭の主木であるモチの木は、昔とちっとも変らない。座敷の欄間、扁額、襖絵などを見ると、やっぱり子供のころが思い出される。父が初めてステレオを買ったとき、この座敷の天袋の下に、それ用に作った板敷きの上に置いて、アメリカのスタンダードナンバーやチャイコフスキーをよく聴いていた。もちろん、これらは大切な、懐かしい思い出ではあっても、この家を含めてこの町、この地域が〈心のふるさと〉と呼ぶには、なにか抵抗を感じる。ちょっと違うような気がする。

 なぜだろう。懐かしい、大切な思い出ではある。とはいえ、どうもあの家、あの地域から離れていたい、とも思う。ぼくと同じように田舎で育ち、都会に出てきて住みついた人は、共感してくれるだろうと思うが、あまりにも近しい、あまりにも親密だった所があるにもかかわらず、いったんそこから離れてしまった者は、ふる里は遠くにありて思うものという気持ちも確かに生じてくるし、また一種の後ろめたさも手伝って、反って離れ続けていたい、という気分に陥る。
ざっと言って、この所は好きにつけ悪きにつけ、思い出のいっぱい詰まった場所であって、大人になるまでの、ふる里(経る里)である。あえて〈心のふる里〉などと言う必要はない、と思いたい。

 そう考えると、〈心のふる里〉とは、むしろまだよく知らない所、しかし長い間なんとなく心が惹かれている所、憧れの地、たえず訪れてみたい地、要するに「ゆかしい」という古語がぴったりな地、そのように考えると、ぼくにとっては、飛鳥地方、漠然と奈良盆地一帯が、それである。とはいっても、足を運ぶようになったのは、ここ7~8年くらいのことであって、行くと言っても年に一・二回、だいたい周る場所を決めて、日帰りか一泊でいく。

 ただ、漠然と飛鳥地方とは言っても広い。その中で、このところずっと気にはなっていても、その一部だけしか行ったことがなかったのが、その南西方面の葛城である。その昔、葛城氏が勢力を誇っていた辺り。今の愛知県の尾張氏も元々はその辺りの出と聞いている。

葛城と難波(大阪)を結ぶ、竹内街道も一度通ってみたい。そこには聖徳太子ゆかりの御陵や墓が移し置かれた王陵の谷がある。古代に、いわゆる〈近つ明日香〉と言われた地方だ。そのまま西へすすむと丹比道(たじひみち)となり、今の堺市の百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵が有名)に通じている。

         *地図4


計画を立てた。ついでに、まだ見たことがない四天王寺と仁徳天皇陵に参って、その足で、竹内街道を通り、葛城に行くことにした。一泊二日のドライブだ。(12.24-25)


          

          
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師走晦風景

 セザンヌの実生活はいかなりしか
     視覚で世界をたえず壊して


  完璧な無風の中を音もなく
     茶色の一葉ゆっくりと降りる


  停年の友を送って帰宅すれば
     心の中に大穴のあく


  終日の小雨にしほる日の丸を
     見つつ思ふ過ぎにし年月


  この晦日またこゆるとは思ひきや
     わが目にまぶし水仙の白



   


     
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うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

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