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今日は1月27日

この日は小生にとって特別な日だ。

まず母の命日である。ふだんよく母のことは頭に浮かんでくるが、晩年の詳細はできるだけ思い起こさないようにしている。あまりにもつらいから。母の残した手帳に書いてあった歌一つ。

栗の皮落ち葉を焼きし焼却炉小雪舞ふ畑に白白と佇つ

小生の生家の道一つ隔てた畑があって、昔はエンドウ、ナス、サトイモなどがよく採れたものである。子供の頃はよくここで遊んだ。いまでも柿・栗・柚子・檸檬の木があって季節季節にはよく実をつける。
この畑の中ほどに銀色の焼却炉があった。晩年母は一人でこの家に住んでいた。

この歌の姿。焼却炉はたくさんの木の葉を焼いてきた。そしてすべての思い出も焼いてしまった。冬、小雪舞う中にこの焼却炉が一つぽつんと佇んでいる。この冷たいしんとした景色の中に一人でいること。それだけだ。それは人間の本然の姿ではないか。小生は、後になって、母の心をふっと通り過ぎた〈純粋な孤独〉とでもいうようなもの、人間が自然の中に居ることの赤裸々な感覚を覚えた。こんな寂しい風景を見たことがない。

それから源実朝の命日。

日本民族の、われわれの心の無意識の深いところで今なおその残響が残っている暗い事件、すなわち源平の合戦。続く鎌倉幕府開幕は、源家・北条家を中心とする権謀術数・百鬼夜行の陰惨極まりない世であった。不幸にして三代将軍になる血筋に生まれた実朝は政治家向きとは反対の魂であった。
実朝は少年時代より、若くして殺されることを予感して生きたという。あまりに素直で純粋な魂、時代に対してあまりにも透徹した意識、このような少年とこのような陰惨な現実との絶妙な組み合わせから生まれたのが、あの『金塊和歌集』だ。(塊は木偏だけど出てこない)

そんなことを念頭において、例えばこんな和歌を読むと、その余韻が胸をえぐる。

くれなゐのちしほのまふり山の端に日の入るときの空にぞありける



それからこの日はまたモーツァルトの誕生日だ。

モーツァルトについてどう感じるか。人様々であろう。宇宙一の超天才とか、神の使者とかいう観点から離れて、今日この日は、もっとリアリスティックに感じたい。すなわち、非常に素直な、そして努力家である作曲家。

この世に生きるということ。怒りでもなく悲しみでもなく笑いでもなく、しかもそれらの全てであるような名状しがたい感情に襲われた時、ふと例えば『フィガロの結婚』の歌がどこからともなく沸いてくる。そして、自分がこの世に生きていることを確認するというか肯定する。上手く言えんな。・・・今K.488が頭に浮かんでいる。

それにしても、『フィガロ』の台本作者のボーマルシェというのは不思議な傑物だ。文学者?軍人?スパイ?大黒幕?革命気分で沸き立つパリを中心に神出鬼没、アメリカ独立に尽力したことでも有名だ。こんな男と天衣無縫ともいうべきあのモーツァルトとの組み合わせが、これまた何とも面白い。おそらくモーツァルトにとって、どんな世俗の騒ぎでも音楽にならざるはなし、といったところか。

モーツァルトの周囲は、彼をどう見ていたであろうか。口うるさい奥さんにがんがん言われながら、家計のために髪を振り乱して作曲に専念している、素朴で冗談好きなお人好し。
そして死んでも自分の墓はない。その他大勢の共同墓地に捨てられた。



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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

寒々としているでしょう。そして小生は母の晩年を知っているだけに身にしみるのです。つくづく親孝行は尽くしておかなきゃ、と思うのですが、それがなかなかね・・・・

No title

栗の皮・・・良い句ですね。寒々とした情景が眼の浮かんできます。

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