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『親鸞』古田武彦著

 久しぶりに心躍る本を読んだ。綿密な考証学的研究の報告と何よりも親鸞の言葉の真意を自己の問題としてどこまでも追及する姿勢にぐいぐい引っ張られた。
 この姿勢はもちろん著者である古田氏のもともと持っておられた特性でもあろうが、それよりもむしろ親鸞によって誘引されたものだ。そのことは、親鸞に起こったことを著者が述べている次の下りと同じことが著者に起こったためである。
 「夜が明けて太陽が出るのではない。太陽が出て夜が明けたのだ。〈信仰〉と〈地獄〉の関係もそうだ。〈地獄行きの身〉だとわかっていたから、法然にたよったのではない。法然に会ったから自己がそのように見えはじめた。」
 つまり、親鸞に出会ったから著者は自己に向かったのだ。

 親鸞の有名な言葉がある。そのひとつに「一人の弟子ももたずさうらふ」がある。彼は他人に教えるただ一つの言葉もなかったのであろうし、教える場所も持たなかった。およそ寺というものと無縁の人だ。あの巨大な東西本願寺は親鸞の生き方と無縁であるのは、ヴァチカンがイエスと無縁であるのと同じである。
 そう言えば、親鸞はイエスとよく似たところがある。
 「わたしは父母の死後の祈りのために念仏したことは一度もない」と言い切る。生きとし生けるものはみな同じではないか。
 ・・・現代住宅にしては大きすぎる曾祖父の時代から伝わる仏壇を邪魔だと思いながらも廃棄することができず、父母の命日などに限って拝んだりする小生の小ささと情緒的無思慮を思う。

 彼の「弥陀信仰」は絶対である。己には必ず善ならぬところがあって、自立はできない、だからこそ他力によって救われなければならぬ。そのためには「ただ念仏すること」。念仏とはどんな意味があるのか?そんなこと知らないね、となる。この意味のない念仏を唱えることの深い意味を親鸞は法然から悟った。だから、また有名な「たとひ法然聖人に騙されて念仏して地獄に落ちたとしてもさらに後悔すべからずさうらふ」となる。
 これは「たとえイエスが真理の外にあったとしても私はイエスと一緒にいたい」というドストエフスキーの一句を思い起こさせる。およそ、理屈でも心情でもない信仰というものの不思議な領域が人間の心のどこかにかならずある。
               *

 古田氏は親鸞の世の常識や体制にとらわれぬ態度を高く評価するが、親鸞がどうにもならぬものとして悪戦苦闘したのは、結局どうにもならぬ己の心であった。弥陀信仰を除けば、彼は彼の一世代前の西行とよく似ていた人ではないだろうかと、つい空想したくなる。
 「見るも憂し いかにかすべき わがこころ
   かかる報いの 罪やあるべき」(西行)

 〈いかにかすべきわがこころ〉を、西行は和歌を創ることによって耐えた。親鸞は弥陀信仰による己の否定によって耐えた。


  

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テーマ : 宗教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

ブログ訪問とコメントありがとうございます

太陽が出て夜が明けた…』
 ⇒ 原因と結果 =因果

それと、信じきること
その為には、一切の邪念からの解放
『空』であること

うたのすけさんの記事を読んでそう感じました
なかなか考えさせるブログですね
ありがとうございます

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