スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

仰げば尊し

 先日の新聞の77歳代の女性の投稿記事で、昔は卒業式と言えば「仰げば尊し」であった。今は違う歌を歌っているらしいのは残念である、とのことであった。

 小生も、そろそろ老境に入ってきたのか、「仰げば尊し」を、その初めの部分しか知らないが、いい曲だ、いい文句だと思うようになってきた。心の中でちょっと歌ってみて、なんかじーんとする。昔はそうは感じなかった。そもそも自分の卒業式など出なかった様な気がする。もはや学校とはおさらばだというわくわくした気持ちで、友人たちと春の夢の中へ真っ先に飛び出していったような気がする。

 それはそうと、投稿記事を読んで、小生もなるほどそうだ、「仰げば尊し」を歌わなくなったのは残念だと共感した。ところが、今はどのような歌が歌われているのか小生は知らない、もっといい歌?が歌われているのかもしれない。とすると、小生の共感は、自分が唯一知っており、いわばそのノスタルジーからそう言っているにすぎない。

 自分の過去へのノスタルジーから今の若者にも、自分の過去に与えられたものを与えようとするのはどうなんだろう、今の若者にはそれに相応しい今のスタイルがあるのではあるまいか。と一瞬考えた。

 しかし、もし若者に何か与えねばならないとしたら、自分の知り経験した範囲の中からしか、与えることができないではないか。自分がもし教師だったらどうだろう。その責任上、卒業式に相応しい歌を物色し、何度も聴いてその中から選定するであろうか。まあ、そんな面倒なことはすまい。面倒だから「仰げば尊し」でよしとしよう、となるであろう。きっと現代の教師は卒業式にふさわしいいろんな歌を知っており、「仰げば尊し」よりいいと判断した歌を選ぶのであろう。

 このようにして時代が変わっていくのだなぁ、歌は世につれ、世は歌につれなんて文句があったっけ。当然大人たちが生み出し提供したものを子供たちは当たり前のこととして受け取っていき、それがその子供の成長過程で感覚中枢の深部に沈澱していく。

 で、教育は、その時の大人たちがいいと思うものを子供たちに提供するものだ。とすると、われわれも子供時分にその時の大人たちがよしとして与えたものを主として吸収してきたはずだ。そして、その大人たちも同様に、子供の時その時の大人たちによって与えられたものを大いに吸収してきたはずだ。その時の大人たちが子供の時も・・・・以下同様。

 当たり前のことである。そしてどの時代にも、必ず新しい発想をする人たちがいて、その人たちは他人に影響を及ぼし、だから少しずつ変わっていく。世の中は変化する。変化しなければ死んだも同然だ。

 とくに表面的な感覚や科学技術による生活の変化や多様化は速い。日本人は明治時代になって、それまでとは非常に違った文明が欧米からどっと流れ込んできて、それを受け入れ、近年さらにその線を推し進めるに急で、いまや親子という連続する世代間でさえ、共通の感覚やツールが少ない。
 とはいえ、世代で全く通じるものがないかと言えば、そうでもない。しっかり共通なところも感じる。そして、そういうところに注視すれば何か安堵する。
 ・・・・続く

 変わらないものを大事にしたいと思う人は↓↓クリック

    

  にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

  人気ブログランキングへ
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

そうなんですか・・・。だとすると日教組は何を考えているのでしょうねぇ。「平等」というのを、その言葉の意味や現実の機能など全く考慮することなく、恣意的観念的に解釈して場違いに適用し、何か崇高な理想を抱いているかのように錯覚しているとしか思えませんね。鳩の友愛と同じですね。戦後の成果ここにありですね。

No title

仰げば尊しを歌わなくなったのは、教師と生徒の関係は対等だとする日教組教育のせいだと思いますが。
例えば教壇を取っ払ったりするのと同じではないでしょうか?

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。