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源氏物語玉の小櫛

 誰でも、うれしい、かなしい、びっくりした、不思議だ、などと感動した時、それを人に話したくなるであろう。それが物語の始まりである。
 他人に話したとて、それが何かの役に立つ訳ではないけれども、少なくとも話せば自分の心が晴れる。どうしたわけか人は深く感動したとき、そのことを自分の心の中に閉まってはおけないのだ。そしてそれを聞く人も感動する。
 しかし、物語は創りごとである。しかし物語を創る人は、でたらめに創るのではない、物語にことよせて、感動したことを語るのである。

 物語の中での〈よし〉〈あし〉は、この感動の深浅に一致する。源氏物語においては、作者は光源氏に圧倒的に〈よき事〉を集中させている。すなわち、心根、振る舞い、のみならず、社会的地位、容貌、いろいろな芸事など、あらゆることが、〈よい〉のである。そして、源氏は多くの女性に恋をする。それがまた〈よき事〉なのだ。なぜなら、人生でもっとも感動するのは恋の道においてなのだから。しかし、それは単に好色というものではない。感動するとは〈あはれ〉つまり〈もののあはれ〉を感じることであって、一時的な〈あだ事〉ではなく、いわば永続的に前向きなこころである。
 
 儒仏のいわゆる道徳などを考えることは、ここでは間違いである。仏教はこの世の欲望、恋心など〈もののあはれ〉を捨てよという。そして、源氏物語においても、多くの女性たちのみならず、源氏自身も出家、剃髪し世を捨てるなどを考えるが、そのことは作者式部がそれをよしと考えたのではなく、また物語にことよせて仏教教義を説かんとしたのでもさらさらなく、当時の人たちはみな仏の道を思ったり話したりした、その世相そのままの姿を描いたのであって、そのことがまたすなわち〈もののあはれ〉なのだ。

 源氏が、父桐壺帝の妃藤壺中宮と密通するなどはもってのほかの不義・大罪である。さらにその子が帝に就くというは、もう皇胤の撹乱であって、めちゃくちゃである。
それは道理にはずれているということは先刻承知の藤壺中宮という女性は最高の〈よき〉女性であり、二人の恋は〈もののあはれ〉が一段と深い。

物語における〈よし〉〈あし〉。あしき人の代表としてこの物語では、弘徽殿の女御を挙げている。この女御は、源氏の敵であり、源氏に対して意地悪いのである。〈よき〉人に対する敵は〈あしき〉人である。また、朧月夜の君も浮気であだなる人で、〈もものあはれ〉をあまりしらない〈あしき〉人のようだ。小生は結構好きだけど。

〈もののあはれ〉を読者に感じさせるのが物語の本質なのだ、と式部は言っていると宣長は言う。いったいこの式部という女性、夫を亡くし非常な学があったといわれる女性は、いかなる広い眼で人の世を観ていたのだろう。

 仏教道徳あるいはいまならキリスト教道徳は、いわば絶対的、超越的最高善を求めるであろう。それに照らして、行動したり思考するであろう。その線で行くと、物語の〈あはれ〉は倫理性の欠如だというかもしれない。が、宣長は言う、人が〈あはれ〉を知れは知るほど、「身ををさめ、家をも国をも治むべき道にも」通じると。人の親や子を思う気持ちをあはれと感ずれば、どうして不孝はでてくるか、民の苦労をあはれと感ずれば、どうして不仁が出てくるかと。

 宗教道徳を求めること、それすら世相、人の本性の一つであって、〈あはれ〉に吸収されるとしたら。
・・・・・・
 そして、この世は物語である。

 「世界は美的現象としてのみ是認できる」というニーチェの見果てぬ夢はこの物語においてすでに達成されている。



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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

フィクションの価値

こんばんは。
たしかに「フィクション」を考えると、日本人は、西洋哲学者が千万言を費やして考察しているところを、和歌や物語で易易と生きてきたと考えると愉快ですね。
菱海孫さんの仰るところを考えていて、面白いところへ連れていかれました。小生はそこまで考えていませんでしたが。
本居宣長の、『古事記』の世界、というより『古事記』以前の、文字をいまだ持たなかった言葉の世界につての直観は、〈もののあはれ〉とつながっている、非常にプリミティヴ=基本的で、とても深いがゆえに、近代精神もも包含する・・・。
なるほど、宣長には、とても新しいところがあると感じていましたが、それはつまり、彼の直観がそれだけ深いのだ、と。
それはしかし、彼の追随を許さぬ独創なのではないかと思っています。
いわゆる国学が近代精神とどこでつながっているのか、そしてまた御一新に国学の運動がほんとうにどの程度原動力となっていたのか、小生よく分からないのですが、いろいろと空想力を刺激させられます。

フィクションの価値

「そして、この世は物語である」そのとおりだと思います。
人は人の世の「あはれ」を源氏物語を読むことで「知る」という、この一連の事態は和歌の場合も同じで、人は花紅葉の「あはれ」を和歌を鑑賞することで「知る」。決して花紅葉という自然的実在の美しさが、和歌をとおして表現されるのではなく、和歌によってあらかじめ花紅葉の「あはれ」を知らされているために、人は現実の花紅葉を美しいと感じることができる。こうした「フィクション」の価値を読み解いた本居宣長によって国学が起こり、その国学が近代日本を開いたということは、近代国家が(あるいは付随する立憲主義や民主主義が)政治的「フィクション」であるという事実と重なって、うなずけることだと思います。換言すれば、近代精神とは自然的実在よりも「フィクション」に高い価値を認める精神で、これを本居宣長が源氏物語の中からつかみ出してきたことは、日本人にとって幸いであったのだと思います。しかし「この世は物語である」という感覚が失われる、つまり「フィクション」=「うそ」という感覚の蔓延するに従って、政治は高さを失い、大衆という自然的実在と同じ位置に堕ちてしまう、我国では「この物語においてすでに達成されている」にもかかわらず(!)。それが日本の悲しむべき現状でありましょうし、ここに保守主義者が再び古典の美を説くべき、理由の一つがあるように思われます。

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