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天皇と自由

 われわれ日本人にとって天皇は特別な存在だ。しかし、神の前での天皇とわれわれとは大同小異である。天皇が神の子孫であるならば、われわれだってそうである。

 また、こうも考えた。

 天皇家に生まれたならば、われわれのように自由なことができず、さぞかし窮屈な人生を送らねばならいない、と思うかもれないが、翻ってわれわれの人生も決して自由なものではない。

 われわれも、生まれた環境はみな違う。親や兄弟が狂気じみた人である場合もあるだろうし、おっとりした人である場合もあるだろう。普通の家に(ああ、普通というものがあったら!)生まれた人もいるだろう。
 金満家の家に生まれた人もいるだろうし、赤貧の家に生まれた人もいるだろう。容姿端麗あるいは不細工を、IQ160をあるいは60を与えられたかもしれない。みんなそれぞれ与えられた条件は、まったく異なる。

 さらに空想をたくましくすれば、われわれは日本語だけを話す両親のもとで育つしかなかった。5カ国語を話せる人はいるかもしれないが、どんなに頑張っても50カ国語を話せる人はいない。ましてや宇宙語を話せる人はいない。宇宙には棲めない。この地球の酸素濃度と重力に適応しなければ生きていけない。・・・

 言いたいことは、われわれは自由でないということだ。みなそれぞれ生まれた時から、strictな条件下で生きねばならいない。

 この観点から言うと、天皇家に生まれようが、佐藤さんちに生まれようが、大差ない。

 ということは、自由とは、~からの自由ではなく、与えられた条件下で如何に工夫して生きるかの自由でなくてはならない。

 もちろん、今の条件から逃れる、例えば家出をする、とうのも一つの選択肢であはるが、それすなわち一工夫であって、そうなるとまた別の条件に置かれることになる。そこでまた工夫して生きなければならない。

 まあこんなことは、だれでも日々感じ実践していることにちがいない。いまさらあらためて書くことでもなかった。
(ぺこり)

自明なこととお感じかもしれませんが
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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

自由の問題

 御返事ありがとうございます。
 初め『大審問官』について、自由/平等の問題と仰られた時、よく解らず、?と思いましたが、今回のコメントでよく判りました。菱海孫さんらしい明瞭な問題意識だと思います。政治はどこまで人間生活に介入できるか、すべきか。そして「近代国家と地縁的共同体」の対立の問題につながっていくのですね。
 小生が口幅ったくも「善悪の弁証法云々」なんて書きましたが、要するに、われわれはすでに西洋から発した問題を己の物として考えねばならない、そもそもすでにわれわれが使っている言葉がすでに西欧の翻訳であるし、仰る文脈でいえば、平等という思想はキリストの教えに、鬼子のようについて回る問題であり、その対立をまともに考えるというほどの意味に受け取っておいてください。
 保守の政治団体のことはよく知りませんが、概ね想像はつきます。いまさら排他的に愛国主義を謳っても解決には近付かないというようなことでしょうか。
 御示唆ありがとうございます。亀山訳も見せてもらいます。

自由について

うたのすけさん

再びの返信はくどいかと思い、迷いましたが大切な問題なので少し書きます。

私は弁証法を知りませんので「善悪の弁証法的展開を消去してしまうような心的傾向」の意味を理解できませんが、少なくとも私は、自由を平等と反対の、両立しない概念だと考えております。

そして現下日本の泥沼は、福祉予算の異常な増大に見られるような、平等への行き過ぎた傾斜に原因あると考えています。したがいまして、これを破る契機としまして、自由が必要であると思います。

長くなるといけませんので大雑把に書きますが、平等を重視する思想は、人間世界に対する政治の介入に積極的な傾向で、自由を重視する思想は、人間世界に対する政治の介入に懐疑的な傾向です。

ここに「政治/人間世界」の対立があり、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官も、政治に大審問官を、人間世界にキリストを割り当てた、すなわち「政治(大審問官)/人間世界(キリスト)」という構図であると、私は考えています。

※ちなみに、先の私のコメントのURLに、私が抜粋しました亀山訳の大審問官がありますので、ご一読願えれば幸いです。

このような考え方は、英米自由主義思想に親和的であろうかと思いますが、これが弱肉強食と呼ばれ、道徳的に問題視される傾向が我国には根強くありますが、このことは我国が長く大陸哲学(特にドイツ学)の影響下にあったための誤解であろうと思います。私としましては、政府による所得の再分配という、人間世界への政治の統制も、少なからぬ道徳的な問題を含んでいると思います。

またそうした自由主義思想が、我国の伝統的な価値観と齟齬があるという考えもありますが、そのことはある程度認めながらも、しかしながら我国の伝統的な価値観が、一向に具体的な制度論に昇華しないのは、それがそもそも近代国家という枠組みにそぐわないものであるためではないかと思います。つまり近代国家と地縁的共同体とは根本的に別のものであると思います。

私はこの件に関しまして、うたのすけさんと議論をするつもりは毫もありませんので、私のこの件に関する書き込みは、これで終わりにします。私のこうした考えが、例えば日心会のような保守団体に、私が参加しない理由でもあります。長々と書きましてすみません。さらにご批判をいただければ幸甚です。

自由

菱海孫さん、こんにちは。
「心は錦」ですか。なかなか江戸っ子風な心意気ですね。
それにしても、小生は自由の問題は日本の伝統にそぐわないような気がずっとしてるんですが、どう思われますか。少なくとも善悪の弁証法的展開を消去してしまうような心的傾向があるんではないかと。そして貴殿には解っていただけると思いますが、この傾向を克服しなければ日本の新生は達成されないのではないかと感じます。
『大審問官』は、論理というよりも重苦しい混沌と記憶しています、たえず言葉にならぬ領域にいるキリストにとって、自由とは自由感ではない、なにか重苦しいあるもの、ですね。
また、再読したくなりました。小生はその昔、米川訳を読んだきりですが、最近亀山先生の訳が有名ですね。亀山氏は、テレビや新聞でちらっとお顔を拝見することがありますが、なんかロシア的憂鬱の影があって、こんな顔の人の訳はきっとひと癖あって面白いかも、と想像しています。

ボロは着てても心の錦

「自由とは、~からの自由ではなく、与えられた条件下で如何に工夫して生きるかの自由でなくてはならない」とは、全くその通りだと思います。そして、ここには二つの大切なことが示されていると思います。

一つめは、富者の工夫と貧者の工夫は自ずから異なるが、両者を比較して、その格差の全てを人間社会の矛盾として怨んだりしないこと。

二つめは、幸福の内容は人それぞれに異なるために、生き方への工夫は誰からも侵害されてはならず、また誰の工夫も侵害してはならないこと。

まあ、要するに「ボロは着てても心の錦」と胸を張って「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と闊歩する、そうした態度の中にこそ、自由は宿るということでしょうか。(天皇陛下の場合はちょっと分りませんが・・・)

このあたりの「自由/平等」の議論は『カラマーゾフの兄弟』のキリストと大審問官の対話でも面白く描かれていますね。

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