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禊ぎ

 住吉(すみのえ)三神が気になって、イザナギ命が黄泉国(よみのくに)に居るイザナミ命を見、そこから脱出するところをもう一度なぞってみた。
 
 イナザギは、国づくりがまだ終わっていないから、もういちど現し世に帰ってきて、とイザナミに言う。イザナミはありがたく思い、「ちょっと待って、黄泉国の神様に訊いてくる」と言って、奥に行く。しかし、なかなか帰ってこないので、イザナギは櫛の歯を一本取って火を灯して見ると、驚いたことに、イザナミの死体が腐ってウジ虫が湧いて、体中に〈雷神〉が生じていた。
 
 イザナギは、怖くて逃げようとするが、イザナミは「見たな~」と言って、黄泉醜女(よもつしこめ)らをけしかけて追いかける。逃げるイザナギは、御鬘(かづら)を投げるとこれが山ブドウになった。追手がそれを食べている間にどんどん逃げる。がなお追ってくるので、今度は櫛の歯を投げるとタケノコになった。追手がそれを食べる間にまた逃げる。今度は、雷率いる軍団を追手に遣わす。イザナギは刀を後ろ手に振り回し逃げる。
 (トムとジェリーみたいで面白いですね)

 とうとう、黄泉国と現世との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓に来る。そこで、イザナギは三個の桃を投げつけると、追手は逃げ帰った。最後にイザナミ自身が追ってきた。イザナギは巨大な岩を坂の中央に置き、その岩を挟んで両者は対峙した。イザナミは「よーし、これからは、現世の人を一日に千人殺す」と言うと、イザナギ「では、こちらは一日に千五百人の人を生もう」と言った。

 脱出したイザナギは開口一番、「あんないやらしい汚い国から帰ってきた、まず身の禊ぎをしよう」

 ここから禊ぎが始まる。持っているもの、杖、帯、袋、衣、袴、冠、左と右の手巻き、を投げ捨てる。とそれが次々と神になる。その神の名前が大事なのだが、省略する。

 『記紀』の神の名前は、それぞれのある作用(ハタラキ)を指しており、いわばこの現象世界の事物は実相世界のハタラキによってなるとは谷口雅春の語るところである。
 イザナミ、イザナギでも、「イ」というのは、生命(イノチ)のイ、生きるの「イ」、息の「イ」を表す言霊のもつ響きであろうし、「さ」というのは、サラサラとかサワサワとか、「触る」の「サ」、「さする」の「サ」、ものが触れ合うニュアンスをもつ言霊の響きであろう。
 「なぎ」は凪、一様にする、静かに平らかにする作用の言霊の、「なみ」は、細かく動く、刻みを入れる作用の言霊の響きであろう。
 というふうに、何何神というのは、それぞれのハタラキを表す。
 
 そもそも神話や民話というものは何なのか。それはわれわれが勝手に創るオモシロイお話とは違う。誰が創ったというようなものではない。自然に生まれてきたものである。遠い昔、それぞれの民族は〈自然〉と直に対話していたのではないかと思われる。その〈自然〉はわれわれ現代人がイメージする物質的自然ではもちろんない。そしてまたおそらくわれわれの思うたんなる心の世界でもないかもしれない。

 われわれ文明人は、一日24時間のうち99.99%を、生活に、つまり食べたり稼いだり人と付き合ったり・・・要するに何らかの有効性に意識を向けている。そして〈自然〉は、そのような意識に対しては、せいぜいその一面をむけるだけで、けっして秘密の扉を開かないのではないだろうか。
 
 われわれが日常意識している現象世界にたいして、ギリシャ人がイデア界を、近世哲学者が物自体を、宗教家が実相世界を、言ってきたのは故のないことではない。現象の向うにある世界、あるいは現象を成り立たしめている世界、あるいは現象がその世界のほんの一側面であるような領域を想定しなければ、どうもピンとこないようなことがある。自然現象といい、生物世界といい、われわれの日常の知覚や行為といい、問い詰めていけば、あらゆる問いがそうである。

 ベルクソンはうまいことを言ったものだ、「われわれは目を持っているにもかかわらず見ることができる」と。生活に浸りきっているわれわれの目は、ほとんど日常の有効性にのみ向けられている。だが、それを離れて〈真に観る〉訓練をしている人たちがいる。それがいわゆる芸術家という人たちだ。彼らは、己の目を功利性から遠ざけ、知覚を深化させる。われわれは自然を見また自然もわれわれを見ているという、いわば自然との信頼を回復しようと日々訓練している。われわれは、彼らの作品を通じて、彼らの訓練の幾分かを分有し〈自然〉に参入しようとする。

 宗教家が実相観入というとき、それとよく似た事情が起こっているのではなかろうか。そして、神話に接するわれわれもまた〈実相観入〉に導かれているのではなかろうか。『神話』を読むとき、われわれは単に現象世界のお話ではなく、あの領域からの諸力を感じるように誘われているのではないだろうか。
 
 したがって、非常に根源的な領域の力に関しては、世界中には似たような物語があってもおかしくはない。アダムとイヴの侵犯やイザナギとイザナミの覗き見などは、例えばメソポタミアやスカンジナビアにも似たような神話が仮にあっても、同じ人類であってみれば当然ではないだろうか、と思う。

 日本人であるわれわれは『記紀』を読むとき、そこで語られている日本語の言霊がいわば発している周波数に、こちらの心を合わせていかなければならないように思われる。だから神々の名前も、へんてこりんな名前が多くあるが、そうあらねばならなかった必然性があるはずで、読む者はそれをいちいち触覚的および聴覚的に探りつつ読まねばならないと思うし、物語の内容もただの物語ではなく、まさにそう語らねばならなかったある世界の諸力を受け取らねばならないと思う。

 閑話休題。イザナミの禊ぎである。身につける物を脱ぐに因って生る神々があった。
 そして水に入る。「上の瀬は流れが速いく、下の瀬は流れが弱い」、それで中ほどの瀬にお入りになって、すすきたまふとき、成った神は、八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)と大禍津日神で、これは黄泉国での汚穢による神。
 宣長は、ナはアに通じ、ゆえにナカ(中)はアカ(清明)であって、「いま禊したまひて清明くなりたまふ瀬なればなり」と言っている。
 
 次に禍を直すために成った神は、神直毘神(カムナホビノカミ)と大直毘神と伊豆能売神(イヅノメノカミ。次に、水底にすすぎたまふとき成った神、そして中と上に成った神に、それぞれ、底津綿津見神(ソコワタツミノカミ)と底筒之男神(ソコツツノヲノカミ)、中津綿津見神と中筒之男神、上津綿津見神と上筒之男神が出てくる。そしてこの筒の男神三柱が「墨江(すみのえ)之三前之大神也」。

 禊ぎとは、まず持っているものをことごとく捨てること。禊ぎは身削ぎである。余分な思いを捨てねばならない。そして、ちょうどよい流れの水で体を清めねばならない。一気に吐き出してはいけないし、あまり逡巡していてもいけない。とこう寓意的に解釈したいが、宣長によるとそれはさかしら心による強弁だということになろう。なにはともあれ、宣長は物と心を分離して考える思考をヒガゴトとして排ける。

 この後で、直毘がやってくる。平常に復する。復したら、水の底で、そして中ほどで、そして上で、さらにすすぐ。この住吉(スミノエ)三神は、底から一気に上がってはいけないので、順序を踏んでそそがなくてはならない。つまり秩序付けのハタラキをいうとは谷口説。
 ちなみに住吉三神は、清水のカミから、神功皇后の新羅遠征や遣唐使で助けてくれる航海の指針となる神となる。

 そして、この禊ぎの後、清浄な秩序が整ったからには、イザナギの目と鼻から、もっとも日本人にとって重要な、アマテラス大御神とスサノヲ男命、そして月読命が生まれる。
 


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コメント

スサノヲ

カクシュウさん、久しぶりです。
女に追いかけられたことがあるんですね(笑)人間強い感情に駆られるとこわいですね。
アマテラスが眼から生まれ、スサノヲが鼻から生まれるというのは、小生は前者が明界、後者がより古い根源的な幽界の象徴なんじゃないかなと思ったりします。

丁度

こんにちは。

丁度、素戔雄神社でそのお話が書かれた本を読んでおりました。

イザナミさんは、人間の女のような感情を持っていて、
追いかけてくるシーンを想像したら寒気がしました。

その後の禊ぎで、鼻から生まれたのが素戔雄様なんでしたよね。^^

No title

coffeeさん、こんばんは。神話は面白いし、意味を想像していたら飽きないし、そして怖い話でも美しい、と感じます。

日付変わって

今日のランクリ

トムとジェリー

トムとジェリーって、懐かしいですね。
ランクリ

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