スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ゼノンの矢

古代ギリシャのゼノンの逆説の一つ:飛んでいる矢は動いていない。なんとなれば、飛んでいる矢も細かく分割すれば、最終的には一瞬一瞬は静止しているからだと。
このトリックは、もちろん運動を分割することはできない。あるいは運動と軌跡とをすりかえている、と言ってしまえばよい。
しかし、こんな風にも考えると面白いかな・・・。
つまりトリックは、すでに初めの命題にある。「飛んでいる矢」ということによって、〈矢〉すなわち〈固定したもの〉という観念をわれわれに与えてしまっている。つまり、〈われわれの注意〉を運動から静止に移してしまっている。
そう考えると、言葉と言うのは、少なくとも名詞は、実在から或る輪郭のはっきりしたものを取り出している。だから、言葉で運動を直接表現することはできない。
〈運動〉という言葉すら、実在すなわち現実のニュアンスに富んだ変化から、抽象されたものだ。
こういう風に考えると、言葉は実在を捉えるのに、あまり役に立ちそうもない。
では、何のために言葉があるか?
それは生活の便利のためにある。こんなに便利な道具はない。
ところが・・・・
そうでないような場合もある。詩である。和歌である。俳句である。
これらは、いわゆる直接的な意味を伝えるためにあるのではない。ある新しい世界を開くため、言い換えれば、これこそ実在の奥深くに入っていくためにある。
例えば、詩において、同じフレーズが繰り返される。意味を伝えるだけなら、二度も言う必要なない、むしろ無駄である。ではどうして詩人は繰り返すことがあるのか。それは言葉は音楽であるからだ。この言葉の音楽性の追求こそ、ボードレールなど象徴派詩人たちが懸命に追求したものだ。

             人気ブログランキングへ 
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。