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大正天皇4

1904年(明治37年)日露戦争の年、皇太子(大正天皇)は24歳。
このころから、だんだんと地方の皇室に対する忠誠意識が表面化してくる。そして、巡啓にともなう諸改革、鉄道や電灯などのインフラ整備がもたらされる結果、各地方からの皇太子巡啓の要請が増えてくる。
また、映像メディアの発達に伴って皇太子の巡啓時の写真が新聞に載ったり、映画も作られるようになる。学校では皇太子の「御写真」の下賜がなされ、神秘のベールに包まれた明治天皇とはだいぶん趣の変わった次期天皇が予定される。
1907年(明治27年)には、伊藤博文の要請により大韓帝国に。このとき10才の韓国皇太子李根(リギン)を愛し、皇太子(大正天皇)は韓国語を学びはじめる。李根は12月日本に留学することになる。もちろんそれは政治的な意図があったのであろうが、皇太子(大正天皇)はそんなことはどうでもよく、心から李根をかわいがった、と思う。
また、軍事演習の見学やら、大元帥を継承する準備のため参謀本部に通ったりさせられるが、皇太子(大正天皇)は、軍事についてはまったく無理解であった。
明治45年、明治天皇崩御。皇太子は大正天皇となる。大正4年大礼は京都、横浜では華々しく演出され、メディアは全国いっせいに国民的行事として報道。
大正天皇は、皇太子時代のような視察や見学といった目的の行幸はできなくなっていた。
1915年(大正4年)、長男裕仁皇太子の地方巡啓が始まる。裕仁皇太子には、明治天皇を理想としての教育がなされる。・・・つまり大正天皇のようではいけないと・・・。
大正天皇の子供じみた、率直でざっくばらんな性格に、山県有朋らは業を煮やし、天皇に対したびたび諫言したらしい。そんな山県を大正天皇は以前から嫌っていた。
そういえば、明治43年、山県邸を訪問した皇太子(大正天皇)の写真があるが、その時の皇太子は縁側で行儀よく両手をひざに乗せてちょこんと座っており、その左側に山県は煙草を右手に持ち、両脚を開けて尊大に構えている。この写真を見ると、大正天皇と山県有朋との関係が伝わってくる。

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