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道徳とは何か 5

 カントの示唆によって、小生がとても面白く感じることは次のことだ。

 道徳は人間種がこの世でより上手く生き延びていくために必要である。しかしそのためのみあるのだとするなら、動物における本能の役割を演ずるにすぎない。

 が、それ以上のものが人間にはある、それは快不快あるいは幸不幸などというものから隔絶された、いわば善悪の絶対的判定の追及ではあるまいか。そしてこの追及は、一般論としてではなく、具端的な己の心の態度として、己の心においてのみ為されるならば、小生はこれこそキリスト教の「可能性の中心」ではないかと密かに考えたくなる。

 すでに触れたように、カントは教会組織としてのキリスト教には関心を持たなかった。カントにとって神がまず存在するから道徳が措定されるのではなく、まずわれわれに道徳法則がいわば義務として備わっているからこそ神が要請される。まず初めに神がどこかに存在していて、天国だの地獄だのの恐怖や強制をもって善を為さしめることを嫌った。

 キリスト教の源泉の躍動は、むしろカントの方にあるのではないだろうか。利己心の塊であり、身勝手きわまる人間種に手を焼き、これをなんとか存続させようとする生命の方略は、あるとき神の命令として単純な〈言葉〉に表されたのだった。しかしわれわれの内なるもっとも基本的な法則が、しかしいつしか外部からの強制になっていった。

 われわれ日本人が西洋を知り始めた時、キリスト教の教えと危険を漠然とは感じてはいても、そのあたりの事情は解らなかった。明治時代が積極的に受け入れてきたものは、根源的躍動が薄まってほとんど忘れられてしまった、いわゆる〈キリスト教文化〉にすぎなかった。

 しかし、われわれが付き合い始めた十九世紀西洋は、啓蒙主義の播いた種が実を結び、行くところまで行った時代だった。神は人心掌握の悪魔と手を結ぶ。また科学技術が飛躍的に向上し、科学主義が人々の心を奪う。しかしいっぽう産業や戦争の規模が大きくなるにつれ、人々はその奴隷になることの不安を抱き始め、新たな宗教を求める。

 そういう向うから押し寄せるダイナミックな波に、とにかく浮袋をつけて乗ってきたのがわれわれだ。波を生んできた力と真に格闘することなく、またする必要もなかった。それは、われわれの置かれた条件、地理・歴史を顧みれば、当然である。われわれにはわれわれの問題があった。しかし、いま日本人にまったく新しい問題が与えられているように感じる。

 経験にかかわらぬ(誤解されやすい言い回しだ!)普遍的な絶対的善悪の追及。たまたま西洋で唯一神の信仰という形をとってきた、自然によって人間種に与えられた能力(道徳)のさらなる発展。これこそキリスト教文明の精華であると小生は感じる。がしかし西洋はこれ以上、問うことを止めたかにみえる。

 あるいは、あまりにも現世的欲望にまみれ、不安から逃れることができない人間のあり様に、もう一度問い直しを迫られているのかもしれない。しかし、人間種が人間種であるあいだは、けっして従来の問いは消えることがないはずだと思う。

 自然信仰や古い神々がいまだに息づいている日本人(本当にそうか?)が、西洋の問いを受け継ぎ、それに対する新しい突破口を発見できる可能性があるのだろうか。そう信じたいが・・・。希望的観測。



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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

難問

なでしこ☆さん。ご示唆ありがとう。いろいろ考えられて、うまく整理できません。また改めて書きます。

ただ、今浮かんだヒントを。

①生物種としての人間を考えると、われわれの意識的生は氷山の一角ということ。

②小生が想像するに、キリスト教の最良のエッセンスは、学習や習慣による道徳から、普遍的な道徳を求めること。(パスカル)

③大昔は世界中のあらゆる地域は、もともと自然宗教(多神教)であった。今もなお露骨にそれが続いているのは、アフリカ、マゾン、ニューギニアなどの部族や日本。しかし、文明国では日本のみ。

④アニミズムを世界に発信しているのは宮崎駿。しかし、物質的欲望的資本主義、つまり知恵の木の実をたらふく食べてしまった日本人が、もはや純粋な「素直なる大和心」に回帰できるか、またそれで世界という修羅道を渡り切れるか。

口伝

umama01さん。こんにちは。
豚肉忌避なんか仰ることが原因としてあるのでしょうね。一般に民族の習慣は、そのようなその地域の自然環境にある人々の物理的~生物的生存条件を宗教が取り入れ混じり合い、長い間に習慣化して、できてきたんじゃないかしら。まあ、長い間には尾びれがついて、まったくの迷信でしかないものもあるでしょうし。
ところで、
小生は、生物としての人間種が言葉を使いだしたのは、とても面白いことだと思います。言葉は、とても便利な道具ではありますが、それは物や心とぴたり一致することはなく、ある類やニュアンスを示す記号ではないか、とすると「神」という言葉をどうして創る必要があったか、その心は?この問題に小生ちょっととらわれたのです。

これは、難しいテーマですね。

うたのすけさん、こんにちは。
鶏が先が卵か先か?的な議論の様です。
永遠に答えはでない。
人間が鶏を創ったのではないからです。
道徳もまたそのように感じます。
しかし、道徳を創ったのは人間ですね。一応定義がある。
でも、人によって道徳の定義が善にも悪にも代わる。
キリスト教は、異人種によって受け継がれ、神道は日本人だけしか受け継がれない。ここに、答えがありそうですけど。

No title

私は宗教的な教え全ては神がもたらした筈もなく、ただの人間の学習によって口伝とされたものだと思っております。
基督教が血を嫌うのは、屠った肉から血抜きをしないと味が悪い・保存が悪い・そして腐った血は感染病を招くという血に対する経験的嫌悪から来ていたり。
イスラム教の一夫多妻システムは、中東という過酷な環境世界で男性の勤労意欲を増すために、格差を設けるためのものだろうと推測しております。
尤も、全て推測でしかありませんが。
こういうことをつらつらと考えるのが好きだったりします。。。

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