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超越的唯一神

 キリスト教でいう神は、小生は絶対善の究極的観念のようなものだと思っている。だから、キリスト教は諸宗教の中で極めて道徳観念と結びついている。平たく言えば、自然と調和し、自然を崇める、大昔から世界の至る所にある自然宗教とはずいぶん趣を異にし、いわば進化している。ここで変化と言わずに進化と言った理由は、おいおい述べよう。

 宗教は人間の心を救うものだ。宗教はもともと、我々の生存を脅かすもの、われわれの不安から、われわれを救ってくれるものだ。
 明日の食事を獲得できるように、森の神、海の神に祈りをささげる。試験に合格できるように、霊験あらたかな神にお願いをしに神社に参る。病気が治るように、シャーマンを通じて祖霊に祈る。
 
 宗教とは別に、われわれは集団生活をする生き物として、善いことと悪いことの区別を知っている。しかし、状況が複雑になるにつれ、またわれわれの個人的欲望が増大するにつれ、何がいいことで何が悪いことか判別が難しくなってきた。それで紀元前の大昔は、たとえばユダヤの律法のように、とにかくいくつかの文言に書き表した。そして、神の命令ということを付け加えれば、その文書に権威づけができる。
 この時点で、つまり人類が誕生してからずいぶん後になって、道徳(善悪)と神とが結びついた。

 イエスが、ある時出現する。彼は善悪について逆説的ともいえる、極端な行為と言葉を残したと後の弟子たちが語っている。
 彼が語ったという言葉の一つ。私に付いてくるなら、すべてを捨てて来なさい。すべてとは、財産のみならず、肉親も、一切の持ち物も、今まで信じていた思想も、ということだ。イエスの弟子に語ることはすべて実行不可能なことばかりである。
 しかし、ここから、われわれの絶対的善の神観念が生まれてくる。これを基準にしてわれわれは善悪を考えることができる。
 
 道徳は、あるいは善悪は、時代や地域や育ちによって異なる、とは言うものの、ここにおいて、それは己の考えを徹底しては疑わないという意味になる。その時代の道徳観念に従うことはむしろ易しいことだ。イエスは本質的な点で時の道徳に従わなかった。キリストは言う、一切の自己閉鎖性から自由になれと。これは神の声を聴けということと同義語なのであるが。しかし、これはとても難しいことだ。われわれは懐疑を止める。あるいは、換言すれば信仰を止める。

  そしてまた、われわれが、己の行為について、どうするのが最善か考えるとき、己の心に、つまり最善を知っている神に問い合わせる。もちろん、われわれは、なかなか最善を実行することが出来ない。実行できなくても、最善を知っている、あるいは心の中で探求することができる。しかし、どこまでも続けることはできない。われわれは探求を止める。あるいは信仰を止める。

 小生が言う「キリスト教のエッセンス」とは、そういうしんどい作業を続けることであり、完全に実行できる人はまずいないと思われる。しかし、このエッセンスは、いかなる教会組織とも関係がない。もちろん神父さんの中には、〈かなりの人〉もいるのであろう。が、また一般人の中にも、同じように〈かなりの人〉もいるであろう。西郷さんも〈かなりの人〉であったと想像される。

 この場合、神というのは、もちろん物理的実体はない。人間は物理的、生物的実体をもつ。それは、人間もまた動物だということだ。しかし、それは半分の真実だ。
 神はあるとき人間が創り出したものだ。何らかの必要があって。それは観念だ、と言いたいが、それにしては、何というか、生々しすぎる。
 比喩的にこう言えるかもしれない。それは数学のようなものだと。とこう言うと、プラトンのイデアになってしまうが。

 数学はこの世にあるか? ノーである。それは数学者の頭の中にある。(脳みそではないのよ!)自然数から実数へ、分数、無理数、虚数。この虚数というのは傑作だ。方程式の解にルートの中がマイナスになった。ではこれを i とつけよう。i はimaginaryの略だ。二乗してしてマイナス3となる数を√3iと表現しよう。なんで!と小生が叫んでもしようがない。数学者の頭の中では、数学が厳格な論理をたどって、絶え間なく拡張していく。彼らにとってはこれが嬉しいのだ。とろこで、このわれわれから見ると、数学者たちの勝手きわまりない数学世界が、現実の科学に何と役立っているのか驚く。この世にない数、どう想像していいか分からぬ虚数や複素数(a+√3iとはいったい何?)、これなくては、コンピューターやロケットが作れない。

 で、神もそのようなものだ。人々の頭の中に、これが宿るようになってから、つまり超越的唯一神の宗教と道徳が手を結んで以来、われわれの道徳が一段と精度を上げ、普遍性に近づけるようになったのだ。
 中世に秋が来て、素朴な信仰者が、実体化して考える神は、いずれ捨てられ忘れられる時がくるかもしれない。が、あの〈超越的唯一神〉はなくなるとは考えにくい。

 こうやって、我々人間は、顔形はさほど変わらぬとも、じつは進化している。




おいおい忘れちゃいけませんぜ
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