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奈良見物 2

 法華寺は正式には法華滅罪之寺という。光明皇后御願の総国分尼寺である。門をくぐると左手に大きな江戸風の鐘楼がある。そこを迂回すると本堂だ。しかし、「名勝庭園公開中」という看板につられるまま先に奥の庭園に入る。

 入ってやや狭苦しい茂みを過ぎると、池を囲んで、松、泰山木などの常緑樹が散在する中、小さな紅葉が数本目立つ。風のない午後の陰りを、池を迂回するように歩く。静かだ。鳥の声以外に何も聞こえない。

 池を三分の二周したぐらいのところに、二棟の平屋がある。その縁先から庭を眺めると、手前には池の続きの入組んだ水路があり、それを取り囲む人工的な柵の中に水仙のような菖蒲のようなつんつんした葉が密生している。その外側には躑躅と苔むした石組み、さらに向こうは常緑の林。
 この庭園の一種雑然たる佇まいは、おそらく代々の気質の異なった人の手が加わったからだろうと感じた。

 庭を出て、本堂に入る。尊像が並ぶなか、中央の扉は閉じている。ここに入っておられる国宝十一面観音菩薩は、あの慈悲深い光明皇后の噂を伝え聞いたインドの王様が、わざわざ仏師をインドから派遣して創らせたものだと言う。きっとあまりに有り難いものなのであろう。その右隣に新しい模造が立っている。模造とはいえ白檀の一木作の名品であるらしい。出入口のおばさんが、昨日まで特別開扉期間で開いていのだけど、あれ(模造)とほぼ同じものですよ、と言って、写真を見せてくれた。 一句
 
 思ひ思ふ 扉のむこう 秋夕べ

 本堂の右手後ろに「から風呂」がある。ここで光明皇后が手ずから千人の病人の垢をお流しあそばされたところだと伝えられる。不比等の娘さんであられる光明皇后が、父の住んだ地にこの滅罪時を建てられたそのお心、夫聖武天皇のご彷徨と大仏造営とあいまって、当時の政治的社会的状況はいかばかりであったろうと想う。

 年表をひもとくと

729年 長屋王の変。
737年 天然痘による藤原四兄弟(不比等の息子)の死。
740年 藤原広嗣の乱。
741年 聖武天皇、国分寺・国分尼寺建立の詔。
749年 聖武天皇譲位。娘である孝謙天皇即位。

ついでにその後

757年 大仏開眼供養。
757年 橘奈良麻呂の変。
    淳仁天皇即位。
759年 大伴家持、左遷された因幡にて『万葉集』の最後歌、あの沈鬱な「新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」を詠む。
760年 恵美押勝(仲麻呂)太政大臣になる。
764年 恵美押勝の乱。
    一首

いつの世もあらそひあれど人々のふかき心もたゆることなし




        
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