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『回想の明治維新』

 『回想の明治維新』メーチニコフ著 渡辺雅司訳を読む。

 この書は、副題に「一ロシア人革命家の手記」とあるとおり、超国家的な目をもった西洋人、しかしどこまでもロシアの魂をもった人が見た日本論である。十九世紀後半のロシアの革命家には、こういう人もいるのだろうか、という新たな感慨をもった。つまり、マルキシズムイデオロギーの仮面をかぶった一行動家ではあるが、そのじつ異国への憬れと、画家のような目をもって、その地の風土や民族、そして生活様式の詳細なルポライター。しかし、単なる報告者におさまらぬ探求者。

 この書を論ずる前に、ぜひとも作者メーチニコフという人の略歴を、訳者である渡辺氏の解説から引用しつつ、紹介したい。

 メーチニコフは1838年、ペテルブルグに生まれた。幼少時はひ弱だったが、長ずるに及んで不羈奔放な熱血漢となってゆく。15歳にしてクリミア戦争の報を聞いてじっとしておれず、義勇軍に参加しようとする。ペテルブルグ大学、およびその他の大学では学生運動のため、一年もたたぬうちに放校処分にあい、芸術学校(もともと絵が好きであった)、と東洋語学学校に入る。一年でアラビア語とトルコ語を習得、パレスチナ派遣団の通訳に採用されるが、上司とのトラブルで失職、流浪の身となる。

 アルバイトをしつつ、画家の修行をしようとイタリアへ。しかし、そこは英雄ガリバルディ率いる千人隊の解放闘争の真っただ中であった。
 これを見て、じっとしておられる彼ではない。ただちにスラブ義勇軍に身を投じ、各地を転戦。ナポリ開城に立ち会い、ヴォリトルノの戦闘で炸裂弾にあたって片足を失う。
 混成部隊にあって、英、仏、独、伊、西、露、波などの言語を自由に操り、通訳を買って出るかと思えば、小休止にスケッチブックを取り出す。
 
 これだけでも、すでに伝説的に面白い人物であって、事実『三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマが、この男の噂を聞きつけて「小説」のネタにしたいとかでかけつけてきたが、メーチニコフはデュマを気に入らず断った。

 一年あまりの休養生活ののち、フィレンツェに移り、ロシアの急進誌に、論文を書きまくる。1863年、メーチニコフの講演を聞いたロシアの革命思想家ゲルツェンの耳に留まるところとなり、以後、親交をもち、さらに、イタリアにおいて、メーチニコフは、バクーニンを同士に結びつける。

 1865年にジュネーブに移り住み、インターナショナルロシア人支部の一員となって、動乱のスペインに乗り込む。次にバルカン半島の民族解放闘争に参加。
 こんな中でも、絶えず雑誌に寄稿はし続ける。もちろんロシア皇帝政府の秘密警察から目をつけられているから、祖国に帰ることはできない。

 1871年、パリ・コミューンの報で、急遽パリに。二カ月余りで敗北。ところがここで、極東の日本に革命が起こった噂を耳にする!このときの彼の気持ちたるやいくばくかであったろう。彼は書いている。
 「麻痺状態から目覚め、新生活へと雄々しく乗りだした国民全体の姿を目にするのは、詩情あふれる人跡未踏のうっそうたる密林や砂漠にもまして、気分を一新させてくれるものである。そして当時の日本には、こうした感動的で新鮮な光景を発見できるにちがいないと私は確信するのだった」 

 ただちにパリ大学で、中国語、日本語を短期集中で習得。ここのロニー教授の紹介で、ジュネーブの下宿屋を訪れた彼は、ここで欧州留学中の大山巌(日露戦争陸軍大将で有名)に会う。

 時は1872年、岩倉使節団が西欧訪問中であったのが、なんともはやタイミングが良すぎる。フランス語を勉強中の大山は、メーチニコフという友人が出来て大喜び。さらに、木戸孝允がジュネーブに立ち寄り、大山を介してメーチニコフと数時間の会話をもった。木戸は、メーチニコフの「スイス論」(小邦連合体制)を読んでいたので、これからの国家体制について話がはずんだことであろう。

 1873年、岩倉使節団一行は、帰途ジュネーブに立ち寄る。この機会をメーチニコフが逃すわけがない。高崎正風は書いている「6月17日、大山案内してロシア人メーチニコフを訪ふ。此人君主専治の政をにくみ、自国を去りて、ガリバルヂの共和党にかへし、・・・足部を射られて、跛となり、・・・人となり敏俊、英、仏、ゼルマン、イタリ、スペインなどの語を能くし、…日本学を学び、少しく談話をなす。音調はなはだ好し、実に一奇人なり」

 ロシアの密偵は、メーチニコフが日本の使節団と会っていることは知っていたが、まさか日本に行くとは、想像だにできなかった。ジュネーブから姿をくらますと、「パリに行き革命活動を続けた」と本国に報告している。

 1874年4月。メーチニコフは、大山から西郷従道宛の手紙をもって、マルセイユから出航。

 ときあたかも、祖国ロシアではナロードニキ(民衆主義)運動の盛りであった。ツァーと農奴の暗いロシアの歴史においてこそ、ヴ・ナロード(民衆へ)が生まれたが、革命家メーチニコフは、「アジア的停滞」の極東で起こった明治革命にも、そのような要素があるに違いないと見当をつけたのだった。

 訳者の渡辺氏は書いている、「幕末から維新にいたる日本の政治、社会状況を詳細に分析したメーチニコフは、明治維新内発説を提唱し、それを〈歴史上もっとも完全かつラジカルな革命〉と断定した。そしてこのような革命を可能にした背後の力として、日本人の身分的平等観念と進取の気性、無神論的傾向を強調した」と。

 彼にとっては、日本の産土の神や鎮守の杜の祭りは宗教ではないし、日本人の平等観念が西洋のそれとはその由来が異なるのではないかという疑問をもつにいたるであろうか。

そして、また一方、ちょうどこのころ、ドストエフスキーは、ナロードの土着的な心に打たれると同時にその退屈に居れない自分を見出し、一方インテリゲンチャの観念性と陋劣、革命に必須の欺瞞に憤怒し、ついにロシアのキリストを幻視する。
が、革命家にとって、そんなことは余計なことである。

                             続く


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