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観念の恩恵1

0とか無とかの周辺をさまよっていた時、われわれはなんと観念世界に支えられているか、ということにあらためて気付いた。

 幾何学の世界はすべてが明瞭にそうである。例えば点とか線とか。点は位置があって大きさのないもの。線は長さがあって太さがないもの。これらは誰でも明瞭に理解するにもかかわらず、厳密に描いた人はいない。たとえ頭の中でさえ描けない。

 直線とは真っすぐな線のことだ。これを考えようとするとわれわれは自然に空間を思い描く。光はまっすぐに走るように見えるが、決して真っ直ぐには走らないことを現代人は知っている。現実には光にも重さがある。それゆえ重力によって曲げられる。宇宙はいたるところに重力が働いている。それを科学者は、空間が曲がっている、と表現する。

 では、何に対して空間が曲がっているのか? それは、われわれの頭にのみ存在する空間観念=三つの直線からなる直交座標に対してだ。そしてこれがなければ、われわれは物理的現実を記述するのが困難である。

 民主主義という言葉がある。民主制の歴史とかロックだのホッブスだの、また難しい議論を離れて、民主主義が万人の平等を前提としているとしよう。では万人の平等とは何によって保証されるのか。それは、法の前での平等というかもしれない。

 では、その法とは何か。万人は平等であると法に書いてあるから、万人は平等なのか。そうであれば、もし法にそう書いてなければ、あるいはそのような法を掲げなければ、万人は平等でなくなる。きっとそうであろう。(実際そんな野暮なことを法に謳っているのかどうかしらないけれど)

 しかし、現実政治において、平等ということがありえるであろうか。というか、平等とは人によって規制が異ならない状態というなら、その実現は困難であろう。男と女、大人と子供がまったく同じというわけにはいかないであろうし、健常者と非健常者も同じ条件でというわけにはいかないだろう。法はそこに、いろいろな付加条項を付け加えなければならないだろう。

 無条件で万人は平等ということを具体例を持ち出して云々することはできない。しかも万人が、万人は平等である(べき)と口にするとなると、それは現実を超えた共通理念であり、個々の人間や集団を超えたある超越的絶対的観念―たとえば神というーに照らしてのみ、そういうことが言えるのではないのだろうか。

 もし、そういう絶対者をもたない場合、現実生活はどうか。われわれは、たとえば自分が自分であるこの感覚を他人に感じることはできない。絶対に他人と自分は違う。他者は外部にあり、自己は内部に感じる。ほかの人たちを数えることが出来るが、自分を数えることはできない。鏡を見ても無駄である。要するに他人と自分と同列に置くことはできない。人は生まれてからこのかた、他人と同じように振る舞うことを教えられてきた。それが社会生活というものだ。それで何となくうまくいきそうだからそれでいい。が、それだけのことだ。自分であることのこの感覚は、他人が居ることと共通では決してない。人は自分から外に出ることはできない。となると、万人の平等は、理論的に、そのような自と他を超えると想定される絶対的地平を必要とする。ここからのみ平等観念が、つまり例えば自他を超える超越神の前における平等が達成される。

 もし絶対的地平がなければどうなるか。
 それを欠いていた以前のわれわれは、こう言ってよければ、他者と共に生きることに専念するしかなかった。閉ざされた、いわばムラ社会内での自己滅却、無意識における闘争への恐怖、それを和らげる話しあい、駆け引きの中断、談合、絶えざる休戦・・・。

 欧米人と日本人と比べると、日本人は昔からなんとなく民主的であるし、いい意味で法治主義が苦手であるように見える。しかし、西欧化と都市化が進むにつれ、だんだん長所が弱点になってこなければいいが。
 
     
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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

なでしこ☆さん。しばしばのコメントありがとう。
そして共感されることが嬉しいです(ニコ)
これ、確たる自信をもって書いたわけではないのです。ただ、他に言いようがないので、こんなふうになるんです。
他に比較しようのない対自存在云々は、そのむかし流行った「実存主義」のメインテーマの一つだと思います。それはややもすると、とても積極的な無神論につながっていますが、むしろそれゆえにキリスト教文明の精華でさえあると、小生は感じます。彼らの自己分析は徹底的です。
われわれの生活をちょっと振り返ってみるだけでも、核家族が気楽だ、いや一人住まいもっといい、近所づきあいは適当がいい・・でしょう。それなのに、昔の日本の美しさがいい、神社巡りをしようなどと、・・・なんか白々しいい部分がありはしないか・・・。そこのところの意識をごまかさず分析しなければ、と思います。
われわれは、もう後戻りができないと感じます。となると、彼らの伝統を支えるものにぶつかって=学んでいかねばと思います。
すでに、明治の初めからこういう問題に格闘していた諸先輩がいるし、かられを学ぶ日本人の意識もかわりつつあると感じます。
あなたに期待よ。

うたのすけ様、神の視点・・・まさに!

こんばんは。
私は、うたのすけ様の意見に驚かされます。
無意識の絶対的な概念があるから、数学も法律も成り立つという事に気が付きませんでした。
確かに、人は自分を客観的に見ることはできませんし、
他人と平等である事を実現にものさしで図るすべを持ちません。
この記事は、目からうろこものですね。すばらしいです。

それから、以前あるブログで西欧の「民主主義」ついて、うたのすけ様の意見コメントを読みました。
その時、私は、うたのすけ様のコメントと同じ意見を残そうと思っていたのですが、
うたのすけ様の意見と同じだったのでレスせずに戻りました。

人の視点という物は、どんなに経験や知恵があっても、あくまでも自分の内的イメージである。
その事は、つねに頭に入れておかなければ、いつまでも真実は見えてこないかもですね。
いつも、示唆に富む記事をありがとうございます。
さいごに、弱点を強みに変えるにはどうしたらいいんでしょう?

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