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仁徳天皇

 仁徳天皇といえば、あの大きな御陵で有名です。小学校か中学校の社会の教科書に写真が載っていたのを思い出します。また大阪は難波のあたりの水路や堤防などの土木事業を積極的に行われたことが史跡に残っていて、土地の人々にはよく知られているようです。小生は記紀を読むようになって、そのお人なりを知りました。

 『日本書紀』の仁徳天皇条には、エピソードがいっぱいあります。そのなかの小生の好きな話。

 夏の暑い日々、天皇は皇后(前皇后は亡くなられたので、次の皇后)とともに摂津に居られた。夜な夜な鹿の鳴き声が聞こえてくる。その声はとても美しくまた悲しく響いて、両陛下はあはれとお感じになるのであった。ところがある時、鹿の鳴き声が聞こえない。天皇はどうして今宵は鳴かないのだろうとお思いになった。

 あくる日、天皇に仕える佐伯部(おそらく遠い地方出身の部民)が天皇にお料理を献上した。天皇はお問いになった、「これは何だね」。献上人「鹿です」。天皇「どこの鹿だね」。献上人「この地のです」。天皇はこの鹿はきっとあの鳴いていた鹿にちがいないとお思いになり、皇后に仰られた「私はここに来て鹿の鳴き声を聞くようになって心が慰められていた。そんなことを知るよしもない佐伯部が、私のためにあの鹿肉をもってきたのは、やむを得ないとしても、なんとも恨めしい気持ちだ。だから、佐伯部をこの宮には置いておきたくない。転勤させよう。」と仰った。

 あの鹿が肉となって出てきた時の天皇のご無念はいかばかりであったでしょう。転勤の処遇を取られたお気持ちもよく解ります。この話は『古事記』には出て来ませんが、とにかく仁徳天皇はじっと我慢するお人だったようですね。

天皇の初めの皇后はとても嫉妬深く、周りはそのためにとてもぴりぴりしていました。その話を紹介しましょう。

 皇后は異常な嫉妬心をもっておられた。宮中の侍女たちは、それはもう常に戦々恐々としていなければならなかった。ちょっと目立った風なことをすれば、皇后に嫉まれ下ろされるのでありました。

 あるとき顔の美しいという評判の吉備出身の姫が宮中に仕えとして召されたのでしたが、皇后が怖くて実家に帰ってしまった。天皇は姫の帰る船を高台から望まれ歌を詠われた。ところがこのことに皇后は立腹され、使いを派遣し姫を船から降ろさせ、歩いて帰らせました。天皇はじっと我慢をしておられたが、姫への恋しさに負け、皇后に「ちょっと淡路島を見たくなったから行ってくるね」と言って、淡路島経由でそっと吉備の国へ行かれた。そこで、食事のための野菜を姫と一緒に摘み、歌を詠まれた。

 山かたに蒔ける青菜も吉備人と共に採めば楽しくもあるか

 そして、別れの歌を交わして天皇は一人難波にお帰りになった。

 なんともつつましく、みやびな話ではありませんか。まるで伊勢物語の世界ですね。この話は『日本書紀』にはありません。今度は記紀に共通の話。

 仁徳天皇は前々から異母妹の八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)に気があられた。皇后が豊楽(とよのあかり=酒宴)のための柏の葉をとりに紀伊の国に行かれた。これはいいチャンスとばかりに、天皇は郎女を招き入れた。ところが、水取の司、つまり水道局に勤める男が船で帰郷するとき偶然出くわした侍女にそのことをオーバーに、このごろ天皇は郎女と昼夜を問わず遊び戯れておられる、と報告した。このことを皇后は侍女から聞かされて、怒り心頭に発し、その御船の載せし柏葉をことごとく海に投げ棄ててしまわれた。そして難波を素通りして、葛城の実家にお帰りになった。
 天皇は、なんとかして皇后を引きもどそうとされるのだが・・・。

 ついでにもう一つの話。

 仁徳天皇はやはり異母妹の女鳥王(メドリノミコ)が欲しいなぁと思い、異母弟の速総別王(ハヤブサワケミコ)に仲介を頼まれた。速総別王が女鳥王のところに行って、天皇のお気持ちを伝えると、女鳥王は、皇后が怖いからイヤ、速総別さまとならいいわ、と言ったので、なんと二人はそこで結ばれてしまった。そんなことをお知りにならない天皇は、返事がなかなか来ないので、自ら女鳥王のところにおいでになって、敷居のところにお座りになり、「その着物は誰のために織っているの」とお尋ねになられた。女鳥王答えて、「速総別王さまのためですわ」。 天皇は女鳥王の心を知ってお帰りになった。

 ところが、その後、女鳥王は速総別王に謀反を勧める。それを耳にされた天皇は、弟を滅ぼそうとされた。天皇の軍勢に追われて二人は宇陀に逃げるが、終に捕らえられる。皇后は軍の総大将に、女鳥王を殺しても、丁重に扱え、また装飾品を決して奪ってはならないと命じた。しかし酒宴の時、総大将の妻が女鳥王のブレスレットを腕に付けていることが発覚した。皇后は即刻総大将を処刑した。
 このことを天皇はどのように思われたことでしょうか。やはり忍の一字で耐えられたのでしょう。

 そもそも仁徳天皇というお名前(おくりな)からして、よほど人々に慕われておられたのであろう。聖帝として人口に膾炙した話がありますね。

 高山に登られて国見をされて仰った、「国には煙が立っていない。みんな貧しいのだろう。わたしはこれから三年間、租税と夫役を免除する」。そして、ご自分の宮の屋根や塀が壊れていたけれど、雨漏りにも耐えて修理をしなかった。その後、国に煙が立つようになり、人々は豊かになった。人々はこの天皇の御代を讃えて聖帝と称した。

 今も天皇は、東日本大震災で多くの困窮者がいることに心を痛められ、みずからも生活を一段と質素にされたとか。そういえば、明治天皇も、兵士のお弁当のあまりの貧しさに心を痛められ、みずからも粗食にされましたね。

ノブレス・オブリージュという言葉を思い出します、noblesse oblige 高貴なる者に課せられた義務とでもなるのでしょうか、今の言葉では恵まれた者は施しをすべしというのでしょうか。まあ、上に立つ者は下の者をたえず気遣わねばならない。あるいは上に立つ者は危機に対してまず自ら身を処す、というべきでしょうか。昔は我が国でも皇太子や親王は成年に達する頃は軍人になったのは、そういう意味合いもあったのではないでしょうか。
イギリスの王子たちも一般人にまじって社会奉仕をすると聞きます。大統領が軍人出身あるいは兵役の経験がある国もありますね。国政にあずかる我が国の議員さんたちも、危機管理ということを少しでも実感するという意味で、一度は軍や救助隊で働いてみたらと思いますが、如何。



                 
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