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山道を上りながら

 昨日、高山市飛騨一之宮駅のすぐ側にある臥龍桜を見に行った。樹齢千年という江戸彼岸桜で、花びらが小粒で揃っている。幹はもともと龍のように横にうねっていたらしいが、首のあたりが折れて、わずかに残るその朽木が往時の姿を想わせるばかりである。

臥龍桜  P4290782.jpg


 花はちょうど見ごろであった。緑の草が鮮やかな山裾に立っていて、背後は杉林、片方は寺の小奇麗な庭に続いている。前は公園になっていて、あちこちにベンチが設えてある。柵のため臥龍桜には近づけないのが残念だ。高山線の線路沿いであるため、電車に乗っている人も車内からカメラをこちらに向けている。しかし思うに、この時期を過ぎてしまえば、この山裾を気にする人は誰もいないであろうし、いったいこの無人駅に停まる電車は一日にこれくらいあるのだろうか。


 近くの仮設売店辺りから民謡風の音楽が流れ、焼き鳥のいい匂いが漂ってくる。毎春毎春いったい何年ぐらい前からこのような店を開いているのだろう。三十年?百年?五百年? 舗装道路も車も鉄道もなかった明治末以前は、この山間の桜を見に来る人がどれくらいいたのだろう。

 お寺の横に幅三メートルくらいの道があって、上り坂になっている。右手は山、左手は一段低くなっていて畑や雑木林になっている。坂の上の空はほとんどが雲である。暑くもなく寒くもなく、風もない。するとその景色が子供の頃から親しかった絵のようで、一種の懐かしさが胸をよぎった。

 同じような景色を前に見たことがある。そしてあの坂道を上まで行ってみたくなった。2・3分上っていくと、平地となっていて、畑と数軒のありふれた新しい家が並んでいた。この道は左にカーヴしていて、たぶん国道に通じているのであろうと思うと、なんか気が抜けた。それは夢が裏切られた感じであった。

 この一種の懐かしさというのは、子供のころ見た景色が蘇ったというよりも、絵本などに描かれた風景でこの山道の向こうに何かあるという期待感が蘇ったことだと思う。それはずっと向こうに続く田舎の道の向うの方への憧憬とか神秘性、引かれる気持ちであって、もし大人になって、あるいは地図を見て、現実の状況やよく知っている道との繋がりを知ってしまうと、消えてしまうものだ。

 子供らしい夢のような憧憬は、空間ばかりではなく、時間的にも同様のことが言える。たとえば、「むかし、むかし、あるところに王子様と御姫様がおりました。…二人は、紆余曲折の末、結ばれました。めでたし。めでたし。」その〈昔〉とは、とにかく「昔、昔」でなければならないのであって、歴史上の紀元何年の人物であることが判ると、興が冷めてしまうのである。

 神話や民話が歴史事実に還元されてしまうと、夢は消える。天照大神の岩戸隠れの話は、三世紀に起こった日食に卑弥呼が驚いた話にすぎない。ニーベルンゲン物語が、六世紀のメロヴィング朝の事件にすぎない、となったら。

 しかし、物語の面白さの本質を支えているのは、われわれの憧憬のほうであり、それを引き出す話者の力である。ホメロスが描く、神々と英雄たちが入り混じって戦うトロイア戦争の面白さは、「ドラゴンボール」の面白さと同じである(古ーぅ)。もっとも、ホメロスの文章の美しさは、地中海の明るい午前のきらめきのように、翻訳を通じても伝わってくる。

 空間的あるいは時間的にすべてが判ってしまったら、つまり、ビッグバン以来の宇宙の歴史や広がり、太陽系の位置や地球の地質学的変遷を経て、世界の地図の中に、あるいはここ何千年の年表の中に、すべてを置いて見る視点を獲得してしまったら、そのとき夢は消えるのだ。

 とにかく漠然たる「昔、昔、あるところに…」や「山のあなたの空遠く…」がなければいけないのだ。
しかし、現実にはわれわれには、決して夢は消えやしない。現に科学者や歴史家が絶えないゆえんである。彼らの活動の源泉には子供時代の憧憬がある。

 ということは、そもそもモノが判るということは、いわば坂道を上っていて歩みを止めふっと後ろを振り返って見える景色のようなものだ。その時はそう見える。しかし、さらに登って降り返ればまた違って見える。と考えれば、坂道を上がる推進力が憧憬であり、文字通り夢見る力であって、モノが判るということは休止のことではなかろうか。

 大人になっていろいろ世間が判ってくる。なーんんだ、世間はこんなものか、と思う。しかし、それはじつは一時休止にすぎない。世間は決して「こんなもの」ではないのである。判ったと合点しても、あるとき思わぬ角度から、また違った面が見えてくるものだ。決して公式はなく、もし公式で止まったら、それは憧憬という力の枯渇である。生きるということは、なぜか知らないが背後の推進力に押され続けていることだ。



                
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テーマ : 思うこと - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

知識と感性

umama01さん。
さらなるコメントありがとうございます。
ほんとに知識と感性とを併せ持っていきたいですね。
umama01さんは、いつも明晰だと思います。ご心配なく。
小生のほうこそ、つい感でものを言ってしまいます。

それにしても、おかげさまで、いろいろと考えが展開していきそうです。つまり、どうしてわれわれは〈同じもの〉を見ていても、より広く見えるようになるのか、そしてまた人により見えるものが違うのか。かつて一度この問題を考えたことがありますが、またそれがよみがえってきました。また、面白い発展があったら書いてみようと思います。

No title

ここでの私の意見とは(確かアルコール入った書き込みだったような記憶がありますが)、「天照大神の岩戸隠れの話は、三世紀に起こった日食に卑弥呼が驚いた話にすぎない。」「ニーベルンゲン物語が、六世紀のメロヴィング朝の事件にすぎない」などと当時の認識違いや本来の規模などが分かっていても、それでも物語には物語の楽しさがある。
そしてそういう物語をも楽しむような感性を持ちえたままで、科学や歴史知識を学んでいこう。
感性と知識は両立するのだ……という意見だった訳です。
その例えとしてB級映画の楽しみを乗せたのですが……言葉足らずだった感は否めませんね。。。
言葉足らずを認識し、的確な表現を……私の最近の課題なのです。

No title

こんばんは。umama01さん。

umama01さんの仰る「事情が分かっていても楽しめる」という時の、〈事情〉と〈楽しめる〉というのはどういうことでしょう。

それを小生の今回の文脈に即して言えば、世界が分かっていても楽しめる、ということでしょうか。
小生の今回の言葉づかいから言うと、世界は分からないから楽しめる、となるところですね。

映画に即して言えば、それは筋が分かっていても繰り返し楽しめるということでしょうか?
その場合なら、小生の言葉づかいから言うと、筋は分かっていても、ちょっとした背景の映像や心理や意味のニュアンスの何らかの新しい発見があるからではないでしょうか。〈何もかも〉分かってしまえば、もう面白さはなくなると思います。同じ場面を繰り返し味わいたいということもありそうですが、それは例えば5回目と6回目とは、それを味わっているわれわれの心理は違っているからと言いたいですね。素晴らしい芸術(?)がなかなか飽きない理由はどうしてでしょう。繰り返すごとに心理が違ってくる主なる理由は、対象がもつ広さや深さにたいする感受性(夢とも言いたいですね)でしょう。
飽きるってことは、そこに新しい何ものも感じられなくなるってことではないでしょうか。

とにかく、いかなる一つのことでも楽しんで追及できる態度を、おそらくumama01さんは肯定されているのすね?それならやはり同意見ですね。ただumama01さんは、その現象面に注目し、小生は心理面を語っているという違いがありますが・・・。

No title

普通に面白いのはA級。
設定の過ちに突っ込んで楽しむのはB級。
どうしようもないのがC級。
……でしたかな?
まぁ、これは私が勝手に設定している映画の話ですが(ホントのB級はただの低予算映画)、事情が分かっても楽しみ方ってのはあると思いますよ??
逆を言えば、そうやってどういう状況でも楽しめる人間性こそがこの情報化社会には必要なのではないでしょうか??

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