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『鈴屋問答録』2

宣長に、神の道は安心を与えるか、と或る人が問うた。宣長の答えはすこぶる明快である。いわく自分にとって安心というものはないと。

 これは、「安心はいかに」という問いは存在しないということなのです。というのも、為政者がいろいろ法をつくったりして世を治めてくれているからには、われわれはそれに従って生き、また人として出来るかぎりのことをして生きていくほかはないならば、別に安心などというものは要らないはずなのだ、ということです。

 宣長はこんなふうに言っています。

 人生いかにあるべきとか、この世はどうなっているのかとか、人の道理はいかにとか、死んだらどうなるとか、いろいろと言う人が居るが、そんなことは人智を超える問いであり、無益な空論に過ぎない。そういうことを口にしたがるのは、儒や仏などの外国思想にかぶれ、それによって安心を得ようとする〈さかしらごと〉なんです。

 我が国の古代の人たちは、そのような小賢しさは少しもなかった。そのような安心の問題を立てる必要はぜんぜんなかった。われわれ後の日本人は、すでに外来思想に染まっているので、なかなかそれが分からないが、そのことをよくよく考えて、〈清らかなる心〉をもって、古事記や日本紀に接してごらん。そうすれば、安心とはいかに空疎な問題であるかが解ってくるだろう。

 たとえば、人は死んだ後はどうなるのか、と問います。わが神道においては、いかなる人においても、死後は黄泉の国に行くほかはない。古事記に書かれている通りである。ほかに余計なことを考える必要はぜんぜんない。人は死んだら必ず黄泉の国に行き、そして黄泉の国は汚く悪いところである。だから、人が死んだら〈悲しむほかはない〉のであって、余計な理屈を考える古代人はいなかった。ところが外国思想が入ってきて、人々が小ざかしくなって、素直でなくなっちゃった。そのために、人智を超えた問題をつくり、それにたいしてさらにいろいろな話をつくるようになったのです。いくら利口ぶっても素直でないだけのことなのよ。

           *

 ところが、問題はここからだ。老子の自然観に似ているが、それに付いてはどうだ、と宣長問われて、次のように答えている。

 ほんとうに自然を尊ぶならば、自然の成り行きをそのまま認めるべきではないのかな。ルソー流の自然に還れなどと言うのは、じつは素直な心ではなく、強いごとじゃないかな。わが古の神道が語るところでは、「いかなる成り行きも神の仕業である。」むしろ、そう信ずれば、それこそ安心というものではないの。

 いいことがあれば、善神の仕業であり、悪いことがあれば、悪神の仕業である、それはもう古事記にある通りよ。それゆえ、人心が乱れたり、悪いことが頻発したり、例えば、儒教や仏教の理屈を口にする人々が増えるというような悪いことが起こるのは、悪神の仕業であって、それなら、それをそのまま認めるのが、わが神道の道である。だから、ある時代には、仏教を援用せざるをえないならば、そうすればよいし、政治に儒教道徳が必要なときであれば、そうすればよい。悪神が暴れるときは、善神でも抑えきれないのであって、そのままにさせておくしかしようがないから、じっと忍の一字なのよ。ただ、古代は善神が強かったから、国よく治まっていたのです。

 すべて世の中の流れが神の仕業であって、どうしようもないものならば、空想をたくましくして、例えば、我が国が強国に占領され、日本語すら使えなくなる事態が来るとすると、それも悪神のなせる業だからしようがない。日本文化が消滅してしまったら、神々はどうなるの。・・・それも神の御心のままに。

 しかし、ここでハタと気づいたのだが、古代人から見れば、現代のわれわれがー日本人だと信じているわれわれがーすでに外国人ではないのか。われわれは、もう屁理屈は言うし、不安だらけだし、おかしな日本語を使うし・・・、異邦人はなはだしいものがある。

 



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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

災難

Hellbrauさん、こんばんは。
何がいいのやら、小生もさっぱり分かりません。本居翁の言う、人の行為も心持も神の仕業であるというのは、文字通りとれば、もう取りつく島がありませんね。
ただ、良寛の言、「災難に遭えば、文句を言わずに災難に遭うがよろしかろう。それが災難を逃れる最善の方法なり。」という、心持ちという風に解すれば、牽強付会というものでしょうか・・・。
この世に救いがないような西洋思想でも、むしろそれがゆえに、とっくに昔にこんな言葉がありましたね、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」。あっ、ちょっとずれてきましたかね・・・。

お久しぶりです

すべて神の仕業ということでこの3.11に発生した大災害を原発被害も含めて考えると少々気が楽になるのは自分がいい加減な人間なのかなぁ~とか想うのですが、それでいいのでせうか?、うたのすけさん!

やはり西洋思想は人間根源は悪であるという息苦しいものであるような気がしてこの本居宣長の答えには他力本願とも思えますがなぜかほっとします・・・でもこれでいいのかな?(笑)

No title

umama01さん。そうですね。上代の日本人の素直な真心云々を主張していた宣長とて実際医者として生計を立てていたことですし、世の中がある程度落ち着いていなければ学問にいそしんでおれないことは分かっていたでしょうね。
だから小生、想像するのですけれど、科学や論理など、よりよく自然の猛威を克服する道をすすめるのが人の自然な在り方でしょうけど、しかし、どうしても心に残る部分がある、その漠としたいわば諦念のような領域を、むしろ自然への共感として積極的に評価しようと宣長翁はしたのだったのかな、と。

No title

屁理屈を生きがいとする私には、なかなか耳の痛い話ではありますが。
古代日本における善神・悪神とは、まさに天候ではないか?とも思うのです。
先の地震津波ではありませんが、悪神(災害や疫病)には抗えず、善神の恵み(豊作や子宝)は期待する以外には他ない。
だから、余計なことを考えるよりもまず手を動かせ。
……じゃなきゃ、死ぬぜ?
って感じに。

儒教や仏教などの信仰が入り込めないほど、日本は本来、生きるのが過酷な土地だったんじゃないかなぁ?とも思ってます。
だからこそ私は、むしろ要らぬことを考えられるように、これからも自然と病に打ち勝てるような科学技術を極めるべしとも思っている訳ですが。。。

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