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『天皇の暗号』

 大野芳著『天皇の暗号』

 日本近代史にちょっと関心のある人なら誰でも一度は次のことを不思議に感じたことがあるのではないでしょうか。
 つまり南北朝の時代以後の天皇はどちらが本家なんだろう、なんとなく南朝が正統と聞かされているが、今上に続いている血統は北朝のはずだが、と。しかしまあ、結局いずれにせよ元は同じなんだから、どちだっていいや、と深く追求することもないでしょうけれど。

 しかし、この矛盾はずっと以前から指摘されていた。王政復古を果たしたからには明治政府は天皇の万世一系を確立せねばならなかった。明治天皇が北朝の血統を引き、しかし思想上は南朝を正統と認めざるをえない、それどころか明治政府はいち早く南朝の功臣たちの顕彰を矢継ぎ早にしている。楠正成、新田義貞、北畠親房らに従一位を与えたり、彼らを祀る神社を創建したり。この矛盾はすでにそのころ公に問題になっているが、それにしても、なぜ明治政府は南朝正統をそこまで強く打ち出す必要があったのか。その理由は何かを、この著書は複雑な迷路を解くように行きつ戻りつしながら探っていく。

① 一つの流れとして、徳川光圀編纂『大日本史』、その影響を受けたと言われる水戸学、そして至純の秀才松陰先生を経て尊王攘夷の志士たちが生まれた。この源流たる『大日本史』こそ南朝正統論であった。

② 長州(現山口県熊毛郡田布施町)に南朝の血を引く大室家があることは、長州ではよく知られていた。桂小五郎らももちろん知っていた。安政生まれの大室寅之祐は慶応年間に忽然と姿をくらました。奇兵隊屯所がここにあった。鳥羽伏見の戦いで、薩長軍を勝利に導いた錦の御旗がここから出発したと、大室史料に残っている。少なくとも錦旗の一つがここにもあったことは確からしい。

③ これも昔から何度となく論争されてきたことではあるが、諸報告から考えられるに、孝明天皇の死は実に不可解であって、じつは病死ではなく殺害されたのではないか、ということがある。(小生もそう感じていた)そしてまた崩御の時期があまりにもタイミングが好すぎる。慶応2年12月。この年、幕府対長州はにっちもさっちもいかない状況であり、坂本竜馬による薩長の密約ができていた。幕府の権威が失墜し、攘夷の嵐の中、孝明天皇はあくまで攘夷と公武一和を主張。

 この①②③の方程式を解くと、他にも公卿の日記などいろいろ傍証があるが、明治天皇すり替え説が成り立つ。つまり明治維新とは南朝革命だったのである。明治新政府は、近代国家のバックボーンとして、また人心掌握のために、そして何より薩長による革命の正統化として、瑕瑾なき天皇制を確立せねばならなかった。福羽美静をして『纂輯御系図』を監修させるが、これを公表することによって南朝天皇の復活が明白になるはずであった。

 そして、ほぼ時を同じくして、明治六年、欧米使節から一足早く帰朝した大久保利通は、留守居役を任せたはずの西郷には会いに行かず、岩倉らが帰朝するまで数カ月間も雲隠れする。維新後の危険と面倒を任せた後ろめたさもあったのであろう、が、しかしと著者は推理する、維新が成った今、正しい天子の由来を国民の前に発表すべきではないかと言う西郷に対して、政府の中枢にいる自分たちは、じつは姦計を用いて武力制圧をした側面があることを、いま公表するわけにはい、と大久保は思っていたのであろう、と。

 そして、西郷を下野せざるをえなくさせ、西南の役で死なせることになったのも、その底流には南朝革命の潔白な公表をめぐっての確執があったのだという。

 まあ、そのようなお話でありました。

しかし、明治天皇が孝明天皇の実子であったにせよ、なかったにせよ、明治天皇は、近代国家形成期の天皇としてのご自分の立場を自覚された、実にあっぱれな御ふるまいをなされましたね。偶然にしては出来過ぎと言いますか、まさに天からの贈り物のように感じます。

 国民の業にいそしむ世の中をみるにまさる楽しみはなし

                          明治天皇御製




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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

こんばんは。ゲッパさん。
ご意見の南朝正統論の思想的バックボーンについては、基本的に著者大野氏と同じだと思います。「大日本史」が北畠親房の影響を受けていると考えるとまさにそうですね。これが江戸幕府内から生じたと思うと皮肉なことです。

孝明天皇暗殺、すり替え、とはただならぬ考えですが・・・。
ただ、維新をなした人たちは、安定した時代に生きている我々から見るととんでもないエネルギーで動いていたことは、あらてめて認識しなければならないと思います。
例えば、伊藤博文は、おそらく卑怯な手段を使ってでも敵をその手で切りまくったであろうし、また英国においては西洋文化を浴びるように学び、ドイツ、オーストリアにおいては憲法を学び、・・・百鬼夜行の初期政界を生き抜いていった。
小御所会議のクーデタなども、その場にもし今のわれわれが居合わせたら、全員真っ青ではないでしょうか。

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No title

明治天皇すり替え説はさすがに信じないです。まあ明治天皇に限らず、遺伝子による判定などない時代ではいかなる親子関係も疑うことはできるわけですが。

明治政府が血統的に北朝であるにもかかわらず南朝を正当にした理由は、いくつかの事情がかかわっているでしょうが、もっとも重要だったことは、明治政権を樹立する勢力の母体になった尊王攘夷思想が本質において徳川時代における反体制思想だったからだろうと僕は思っています。体制の中枢にある徳川氏を批判するには、北朝が正統であって困るわけです。北朝は徳川氏と同じく征夷大将軍の地位にあった足利氏にかつがれた王朝でしたから、北朝を正統とする限り天皇の権威に頼って幕府を批判することは困難になってしまうので。

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