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『平治物語』

 『保元物語』においては、崇徳院側についた豪傑源為朝が夜討ちの進言をしたのですが、藤原頼長が容れず、ために崇徳院側は敗北しました。頼長は日本一の大学者と言われるほどの人だったのですが、学問と戦略とは別なのでしょうか。

 『平治物語』においては、のっけから無能無芸と痛罵されている(文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし。ただ朝恩にのみ誇りて云々)藤原信頼が、つわもの源義平の進言を容れず、ために源氏側が敗れました。そもそもあんな情けない藤原信頼と手を組んだことが源氏の衰運を招いたと、時の人たちのもっぱらの噂だったそうです。

 ここでの総大将源義朝は、最後に尾張の野間というところで入浴中のところを襲われて最期を遂げたのです。いま南知多ビーチランドの近くに、義朝の首を洗ったという池が残っていて、そこのお寺(野間の大坊)は、霊験あらたかな、そして住職が面白い人、そしてまた賽銭箱がやたらに多いことで、この地方では有名ですね。小生もかつて知人に連れられて訪れたことがあります。

 義朝は敗残の兵、再興を期して東国に渡ろうとする途中、ここ尾張の野間に住まう長田忠致(ただむね)に頼ったのです。彼の娘は義朝の信頼する従者の妻。にもかかわらず、長田は、時の趨勢を読み、義朝らを謀殺し、その首をもって上京し平清盛らの恩賞にあずかろうとしたのですが、そのあまりの強欲ゆえに、逆に何も与えられず追い返されてしまったのですね。

この長田の義に背く行為は、世間の非難するところとなりました。また、義朝の死は、かつて保元の乱において父や兄弟を殺さしめた逆罪の因果応報にちがいない、と人々は噂するのでした。

 『平治物語』の作者はすでに源平の合戦の結末を知っていて、源氏の武将たちがいずれ平氏を打倒し天下を取ることを前提に書いています。伊豆に流された頼朝が成人した暁にはきっと平氏を打ち破ってくれるだろうという期待が文面に表れています。

 小生思うにこの物語の圧巻は、義朝の妻である常葉が、幼い三人の幼児(今若7歳、乙若5歳、牛若1歳)を連れて2月の雪降る中、都から宇陀の親戚を頼って行く場面です。(陽明文庫本)途方にくれる常葉の心中、そして常葉が追われている身であることを知って一夜の宿を与える里人の心が、凍てつく空気に広がっていくところの文章は、じつに美しく感じます。




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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

カーボンオフセットさん。コメントありがとうございます。出雲は早く鉄の産地だった、ヤマタのオロチはたたら製鉄所だった、そこから貴重な鉄剣がつくられた、という説は聞いたことがあります。あらかねのつちは、お説通りだろうと思います、土は貴重な金属を含んでいますから、これが枕詞になったのでしょう。
それにしても、「ああかねのつち」という言葉を聞くと、今の季節、謡曲『草紙洗小町』を思い出します。「あらかねのつちにしてソサノヲのみこと、守りたまへる神国なれば、花の都の春ものどかに・・・和歌の道こそめでたけれ」

枕詞


「あらかねの土にしては、すさのおのみことよりぞ起こりける。」(古今和歌集仮名序)
あらかねとは通常、土の枕詞であり、この文章は、
「(和歌はこの日本の)地においては須佐之男命の時から詠まれはじめた。」
となる。
しかし、出雲国風土記で意宇郡安来郷の地名由来には「スサノオノ命が、ここに来て、こころが安らかになった。だから安来とつけた。」あり定住を決めた発言とも読める。
記紀においてはヤマタノオロチを倒した後、稲田姫命をめとり「八雲立つ出雲八重垣妻篭めに、八重垣つくるその八重垣を」と日本最初の和歌を出雲で詠んで定住を開始したという。
古代より、鉄の産した島根県の安来の地のことを「あらかねのつち」=(新しい金属(鋼)を産する地)と訳せばあらゆることに説明がつくのである。

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