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イエスという人

クリスマスがくるといつもイエスという人のことを考えてしまう。

 キリスト教というものを小生は簡明に考えている。そのエッセンスは、自分は嘘をついているのかついていないのかをたえず自問することだ。ただ方法論的に究極なる正義(神)を措定し、それに照らし合わせて考え行動することが紛れを減らせるし、決断しやすい、というだけのことだ。したがって小生はそれを普遍的なものだと考えている。

 もちろん、〈キリスト教〉は、文化的意匠という厚着でお化けのように膨らんではいるが。そもそもギリシャ語で書かれた「新約聖書」にしてからが、すでに立派なキリスト教文学ではないか。始めからそうなのだ。だからあれを経典のように読む人たちの気がしれない。

 イエスはフツーのユダヤ教徒の家に育ち、ユダヤ教を基とする救済を説くフツーの青年であった。ただ心の中にたえず一点の灯がともっていて、それが終生消えなかったような人だ。

 イエスが生きた当時、ユダヤの民は永らく周囲の強国によって苦難の道を歩まされ続けたがゆえに、救いの神(ヤハウエ)信仰をめぐって、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派らが対立し、時代は混沌としていた。

 そんな中で、イエスはいわば左右の言説に惑わされることなく、また教え(律法)に縛られ過ぎることなく、いわば聖にも俗にも陥ることなく、澄んだ目で見、行為した。フツーの生活人に接し、人気を博していったことはいうまでもない。それゆえ既得権を侵されると恐れた神官や律法学者たちにとっては、イエスはうっとおしい存在となる。

 イエスは自分が処刑されなければならないと、あるときから覚悟を決めたようだ。読み書きが出来ない人たちに対し彼はアラム語だけで充分だと考えたであろうし、そもそも自分の考えを文字にして書き残そうとするような卑しい気持ちも、一宗派を立ち上げようなどという煽情的な気持ちも、一瞬も湧きおこらなかった。

 「新約」が書かれたのは彼の処刑後数十年以後である。彼を神あるいは神の代理人だと当時感じた多くの人たちがいたことはよく理解できる。イエスが語ったとされる「福音書」の中の言葉が、繰り返し浮かんできては考えさせられる。

 ついでに「旧約」はと言えば、広大な無意識からふと噴出してくる不思議な夢のような神話・歴史の複合体であって、そういう意味で小生はこちらの方が面白い。『聖書』は小生の愛読書だ。とはいえ、これをまた通読せよと言われれば、もううんざり。たまに所々読み返すぐらいで結構。



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