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アウグスチヌス2

 
 
 『創世記』の初め、「神ははじめに天と地とを創造された」という部分の執拗な考察、この〈はじめ〉ということから、有名な時間論が展開されるところは、やはり面白い。

 「この宇宙を創造した神は、その前何をしていたのか」との質問に答えて、何もなさっていなかったのだ、そもそも時間も神の創造である。〈その前〉などということはありえない。・・・ このことは宇宙のビッグバン理論を耳にしているわれわれ現代人にはよく分かりますね。

 過去とはもはや〈ない〉ものであるにもかかわらず、ある。未来とはまだ〈ない〉にもかかわらず、ある。それは記憶としての、そして期待としての現在にあるしかない。測定できる時間は現在だけではないか。それが長いとか短いとか言うのは、現在には広がりがあるということにはならないか。

 測定するためには初めがとどまっていなければならない。それはどこに留まるか。それは自分の記憶の中ではないか。・・・とすると時間は私の精神において測られるのではないだろうか。未来はすべてかならず過去になる。ところで神は永遠である。そこでは過ぎ去るものはなにもなく、すべては現在にある。この永遠という現在の高さから過去の一切が流れ出す、云々。

                 *

 おそらく、アウグスチヌスが、ギリシャ哲学的言辞で(静止は動きに先立つというような)、言いたいことは、こうであろう。つまり、われわれは未来―過去を流れる歴史的時間を生きているが、もしそれをいつでもただちに無効にしてしまうような永遠(それは同時に未来も過去も含むような)に触れられていることがなかったならば、われわれは救われることがない、と。

 このことを1500年後にもっとはっきり言い表した人がいる。もっとも小生の勝手な連想ではあるが。こんなふうにー

 ギリシャ的永遠は過去的なるものであり、ユダヤ教の永遠は未来的なものである。…キリスト教の永遠は未来的なるものでありかつ過去的なるものとして瞬間(現在)に現れる。キリスト教において一切のものの枢軸をなしている概念、すなわち一切を新たになす所以のものは、時が満ちるということである。この時間の充実が瞬間であってこれは、同時に未来的なものであり過去的なものである。

 もし人がこの点に注意を払わないならば、いかなる概念をも、異端的な背信的不純物から守ることはできず、過去的なるものはそれ自身独自なものとして捉えられることなしに未来との単純な連続性のうちに留まらしめられる(かくして改心・宥和・救済の諸概念の意味も失われることになる)、未来的なるものはそれ自身独自なものとして捉えられることなしに現在との単純な連続性のうちに留まらしめられる(かくて復活・審判の諸概念は没落せしめられることになる)。
(キルケゴール『不安の概念』)




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テーマ : 聖書・キリスト教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umama01さん、そうですね、神が世界を創ったのなら、その世界以外を考える思考は、パラドックスですね。むしろ彼らは初期からその限界を緊張して生きていたのではないでしょうか。まったく、バベルの塔の恐ろしさです。しかしまあ、小生もまったく不信心者ですが、彼ら西洋のキリスト教文化を創ってきた人たちは、そのために逆に何とすごい創造をしてきたのだなあ、と感じることはできます。

No title

不信者の私的な発想では、余りにもスケールの大きな時間という概念を意識してしまった人間が、寄る辺として神を作り出し縋るしかなかった……のであって、神が世界を創造する前を考えること自体が既にパラドックスである。
なんて思ってますけれども。。。

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