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西行3

 大空は梅のにほひに霞みつつ
      曇りもはてぬ春の夜の月 (定家)

 かへり来ぬ昔を今と思ひ寝の
      夢の枕にほふ橘 (式子内親王)

 この『新古今』的な前衛的な妖しい花々の前では西行の歌は、概して素朴で、直接心から発する感じがして親しみやすい。だからこそ、『新古今』に置かれると、むしろ収まりが悪く感じる。やはりどうして彼の歌が『新古今集』にもっとも多く採られているのか、という疑問が離れないのである。

 かりに西行の歌が新古今的につまらないという観点に立てば、どういう風に見えてくるのであろう。難解で斬新なあまたの歌から推して現代の定家たらんとした塚本邦雄の諸評論を覗いてみよう。彼は生涯を通して反西行の立場を自認して憚らなかった。

 「〈鴫立つ澤の秋の夕暮れ〉にしたところで、〈心なき身〉という詞がいかにもかまととめいて私は嫌悪を催す。…〈心なき身〉の卑下自慢を上回る俗臭紛紛鼻もちならぬ似非世捨て人であることは歴然としている。」

 「〈願はくは花の下にて春死なむ〉は老優の切った下手な見得めいて嘔吐を催す。…西行の実録、逸話、伝説には、意味ありげでわざとらしく、殊勝に見えて実は気障っぽい言動が掃いて捨てるくらいでてくる。」

 ほんとうに西行の歌が先に下手たど思ったのか、伝説的な出家者の人気が先に鼻についたのか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざがあるけれど、もう西行の何もかもがマイナスイメージで塗りつくされている。よく引用される後鳥羽上皇の西行評「生得の歌よみ、不可説の上手」とは、えらい違いだ。

 さらに塚本氏は言う、概して平凡な歌が多いのに、多く採られているその故は、『新古今』は後鳥羽院によって造られた、濃淡、強弱、明暗の巧妙な配合からなる一巻の絵巻物であるから、西行の作は定家らの作を際立たせる緩衝剤にすぎない。美酒佳肴に飽きた通人がとどのつまりは一杯の水をこそ不変最高の甘露と称えるのだ。

ここまで言うのは、ちょっと偏見が過ぎるのではと言いたくなる。が、それには塚本氏なりの理由がある。

 『新古今』とは何か。新しい歌とは何か。塚本氏は俊成に成り代わって語るところは、「西行の人物と歌柄の野性を最大限に利用したいと思ふ。古今集以来の血族婚で畸形化した歌、惨憺たる自家中毒症状の歌の、毒を制する毒として。」「西行は直接体験を詩的経験より高いものと自負してゐるやうだ。私の逆説がかれには通じない。即物性の新鮮さは暗い心理の中で生きる、といふ逆説を。」


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テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umama01さん、まあいろいろな鑑賞があっていいのでは。他にはありえない〈その一首〉の好さに尽きると思う時があってもいいし、一人の人物の歌は総て〈その人物〉を示唆するものとして味わう時があってもいいし、またこの場合、『新古今』自体が、撰者後鳥羽上皇に集約される〈その時代の文化意志〉の発露として味わってもいいし。

No title

やはり新古今的という概念は理解出来ませんね~。
歌一つ一つの評価というか、良さ・風情などは歌を詠みながら考えたりはするのですが……。

現代風に言うと、一曲の良さというより、アルバムの中での役割という感じなのでしょうが……どうせランダム再生ばかりの人間なので。。。

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