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後鳥羽院1

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 承久の乱(1221年)は、天皇が武士によって、つまり天皇家以外の者の手によって、流罪になった日本史上初めての例である。

 『日本史要覧』には、「後鳥羽上皇が幕府に摂津の長江・倉橋両荘の地頭罷免を要求」とあり、幕府はこれを拒否。武をよくする後鳥羽上皇は自ら創った軍団をもって戦ったが、負けて隠岐に流された。

『新古今集』撰進の院宣が下りたのは1201年(建仁元年)、その完成の竟宴が催されたのは1205年(元久二年)、しかしその後も後鳥羽院は切り継ぎを繰り返し、最後に成ったのは1210年(貞元四年)。和歌所に勤めていた定家は院の恣意に振り回されている様子を日記に書きとめている。

そして、隠岐への配流の身になったとはいえ、『新古今』再編纂の情熱は衰えなかった。後鳥羽院は約二千首を何度も何度も繰り返し詠むうちに諳んじてしまったという。そこでも切り継ぎは行われ、いわゆる『隠岐本』が成ったのは1235年(嘉禎元年)という。30年以上『新古今集』編纂に心を注いでいたというからには、われわれがそれを読むに際して、個々の歌もさることながら、やはり全体の流れや歌の配列、構成に注意して読まねばならいようであるが、小生はまだ通読してはいない。

一見、承久の乱で勝った幕府(北条氏)が政権を、負けた後鳥羽院が詩歌を取ったという、その後の日本の二元論的あり方の基が形作られたようにも見えるが、院自身は武の人でもあり、いわば古代的な〈まだ〉政治から離れられない時代の、あるいは離れたくない性分の人でもあった。

政治から離れ純粋詩に没入しようとしたのは藤原定家であった。丸谷才一著『後鳥羽院』によると有名な「紅旗征戎吾事ニ非ズ」という文句を彼は日記『明月記』に二回書いている、一度は定家20歳のとき、1180年(治承四年)、平清盛が福原遷都し、源頼朝が伊豆で挙兵した年であり、もう一度は60歳、承久の乱が起ころうという時だ。

後鳥羽院の和歌に、

 あはれなり世をうみ渡る浦人の
    ほのかにともすおきのかがり火

 という一首がある。これは、「あはれ」は「哀れ」と「阿波」、「世」は「夜」、「うみ」は「海」と「倦み」、「ほのか」は「仄か」と「帆」と「焔」、「ともす」は「灯す」「伴」「艫」、「おき」は「沖」「起き」「隠岐」を掛け、その重層性によって意味の複合体が生じている。肝心な点は、この歌は承久の乱以前に創られたことである。

 つまり後鳥羽院は、東の武士団が謀反を企てており、いずれ彼らと戦うことになっており、そして負けて隠岐へ流される、という予感をもっていた、と丸谷氏は言う。この話を聞くと、小生は、ロベルト・シューマンがまだ二十歳にもならないころ、自分がライン川で溺れ死ぬ夢を見たという話を思い出す。

 続けて丸谷氏は、院は「さきにまづ悲劇的想像力、といふよりもむしろ自分を悲劇の主人公に仕立てて楽しむ自己陶酔的な癖があったと思はれる。…彼は、心の奥で恐れながら憬れ、憬れながら恐れてゐた島で配所の月を見ることに成功するのである。」

 この観点に立てば、『新古今集』巻十八の巻頭に菅原道真の歌十二首を載せ、それを『隠岐本』でも削除しなかった意味が浮かび上がる。院は道真の悲劇に魅惑され、敗北を思慕していたのであり、これは定家の預かり知らぬところであった。

 丸谷氏の考察は、承久の乱は、関東vs京、あるいは武士vs天皇という意味を超えて、政治と文学とのかかわりあいを示唆してスリリングである。定家は、政治という現実に完全に背を向けることによって、徹底的に抽象的・形而上的美を目指す。後鳥羽上皇は、自身政治にコミットしながらも、政治すら詩の一素材であるように願って行動する。

 奥山のおどろが下も踏み分けて
   道ある世ぞと人に知らせん 1633後鳥羽院

 見わたせば花も紅葉もなかりけり
   浦の苫屋の秋の夕暮   363定家

 定家のこの歌を後鳥羽院は『隠岐本』では削除した。塚本邦雄は、このことについて院にたいする怒りを隠そうとしなかった。

 芭蕉は俳諧を夏炉冬扇のごとしと言ったそうだ。つまり詩は現実には何の役に立たぬもの、のみならず余計なモノだ。しかし、現実とは何か?

 ティラノサウルスがトリケラトプスを喰らい、雄と雌とが子孫を残すために大地を揺るがす生々しさが現実であろうか? 人間の生も、もし言葉が無かったら、現実とはそのようなものであろうか? しかし、そこには〈現実〉なる言葉すら存在しないのではないか。

 三島由紀夫があれほど憬れた切腹。首が飛んで血が飛び散った日、すなわち予定された〈昭和45年11月25日〉という日付が彼の最後の小説の末尾を飾る言葉でもあったとは。が、彼はあの瞬間〈現実〉を完成させたのであろうか。

 『新古今和歌集』はいろいろな問題を含んで豊富である。この歌集編纂に参加した歌人たちは、現実は言葉の側にあるという信仰を深めるために生きたのではないだろうか。




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コメント

No title

umama01さん、予感というものは正確なことがありますね。負けるということに対して、それを自分に納得させ、さらにはそれを利用しつつ、自分の運命を創っていくということがあるのかもしれません。

No title

戦いとはそれまで積み上げてきた成果によって決まる。
と言うのが実際のようですし、反乱を起こす前でも……凡そ勝てる負けるの趨勢ってのは分かっていたのではないでしょうか……と、勝手に予測してみます。
逆を言えば、もう引けないところまで来ている己の身も哀れなのかなぁと思いを馳せてみたり。。。

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