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後鳥羽院と定家2

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 後鳥羽院は、和歌のみならず、小弓、競馬、笠懸、相撲、蹴鞠、水練などスポーツや、琵琶、白拍子舞、今様、鶏、囲碁、将棋、双六、など、まあありとあらゆる遊芸に喜びを見出し、それらの名人たちを身分に関係なく集め、競わせることをこよなく楽しんだ。

 水無瀬離宮における遊興の時の、この「専制的な文化的支配」王の上機嫌な声が聞こえてくるようである。いっぽう、和歌と出世のことしか念頭にないような定家は、そのくせ院の遊興には馴染めず、院の強引な享楽趣味にたいする苦々しい思いを、いじいじと日記に書きつける。

 承久二年(1220)、順徳天皇の内裏歌会で、定家が自分の不遇を訴えたとも受け取られるような述懐歌を詠んだ。このことがきっかけで定家は後鳥羽院の勘気をこうむり、しばらく謹慎蟄居させられた。

 もともと定家の家族には鎌倉方の縁者が多く、将軍実朝に『新古今』などを贈ったり、また求めに応じて実朝の和歌の合点、批評などもしていて、そんなこんなでどうも後鳥羽院と定家はだんだんそりが合わなくなっていったようだ。

 そして承久三年である。後鳥羽院は鎌倉の北条義時追討の宣旨を下すが、京軍はまたたく間に敗走。後鳥羽院は隠岐へ流され、結局その地で生涯を終えることになる。GHQたる鎌倉方の下、京に後堀川天皇が置かれ、文化は九条家によって監督される。定家は、あの恐ろしい祝祭熱狂的後鳥羽院と正反対の柔和で思慮深い後堀川天皇に安堵と喜びを感じた。

 後堀川天皇は、1232年、定家に『新勅撰和歌集』の撰進を命じた。が、間もなく不幸にも突然の崩御。が、九条道家は定家に編集の続行を命じた。ところが、道家はその仮奏覧本に後鳥羽院や順徳院らの和歌があまりにも多く含まれているのを見て、これ鎌倉方に見つかったら、ちょっとやばいのではということで、これらをすべて削除するように定家に命じた。

 この『新勅撰集』は、1235年に完成したのであるが、おそらく当初、定家が後鳥羽院の和歌をもっとも多く入れていたのであるからには、彼は後鳥羽院御製をそれだけ認めていたのであろう。じっさいには鎌倉を慮ってすべて削除された。そして入首歌最多は藤原家隆であることが、この集の傾向を想像させる。

 この頃の定家は、千五百番歌合当時は、歌人たちは自分で素晴らしいと思って詠んでいたが、今見ると、まったく尋常の歌とは言えない、自他の恥と言うべきだ、と日記に書き、また定家の息子為家の妻の阿仏尼は、後に定家は『新古今集』を「あまりにたはぶれ過ごしていた」と言っていた、と書き残している。

 他方、隠岐での後鳥羽院は、あの黄金時代の和歌をどのように考えていたのであろう。『隠岐本新古今集』で、多くの歌が削除されたが、新古今歌風を築いてきた歌人たちの歌を、その割には減らしていない、少なくとも定家の歌をとくに減らすようなことはしていない。あの時の輝かしい美を否定していない。

 隠岐に流されてからの後鳥羽院と京に居る定家とは、一度も連絡し合った形跡はないようだが、しかし、二人はこの長い期間を通じてお互いを高く評価し続けていたと思われる。

 そのような、田渕氏のお話でありました。


    
 
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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umama01さん、そうですね。一時の愛憎と能力評価とは別というのが普遍的な常識人の態度であるとは感じるけれど、死者をも鞭打つという人たちや、憎むための銅像を建てる人たちがこの世に存在するって聞きますから、どうなんでしょうねぇ・・・。

No title

確かに過去の作品ってのは燃やしたくなるものですが……
こんな昔から同じ苦悩を日本人が味わっていようとは。。。

と言うか、飛ばされた後も気に入らなくて怒った相手でも、相手の能力を評価できるって、意外と後鳥羽院ってしっかりとした気質の方だったようですね。

と言うか、千年以上昔でも、人間ってあまり変わってないんですね~~。

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