スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

脳とは何?

脳は発生学的に脊髄の一部が膨らんだものだ。
生理解剖学的にも、脳は脊髄と基本的に同じ、神経細胞・線維の塊だ。それは、刺激の通り道だ。そこで起こっているのは電気化学現象に過ぎない。違いといえば、脳は圧倒的にその結びつきが複雑なだけである。ちょうどそれは、熱や痛みの刺激に対して考える前に逃避反射(決まりきった行動)が起こることと、色々な行動の選択肢の前で考えることとの違いを、解剖学的に表している。

ということは、どちらにしても、行動が問題なのである。脊髄反射は今せっぱつまった危険から身を守るためにある。脳は多少とも遠い危険から身を守るためにある。そのために、今後の行動の様々を表象しなければならない。というより、行動の中止すなわちさまざまな選択そのものが表象になる。そして、それが認識とよばれるものであろう。あくまで主体の行動~ありえべき行動がまずある。動物にとって生きるとはまず行動することだ。ということは、ものの認識とは後で生じたいわば贅沢品である。つまり、行動なしの認識のための認識が初めからあるわけではない。

それにしても、最近の脳ー認知心理学が教えてくれることは興味深い。例えば、ボールをこちらに向かって投げつけられた時、常にそれを上手にかわすことができるが、飛んでくるものが何なのか全くわからないという脳疾患患者がいる。つまり、脳の複雑さとは、もののこちらに及ばす危険度(スピードや方向)とか、形・色・大きさなど、いろいろなカテゴリーに分解し、統合するのみならず、そのおのおのにたいして、運動神経の方に繋がっているらしい。そして、示唆的なことは、この患者は脳のいわば発生学的に新しい部分が侵されているのであって、旧い部分は正常らしいという点である。

われわれは眼を使って物を見るということは、われわれは眼球、網膜、視神経、大脳皮質の視覚野を使って物を見る。その、どの部分を破壊しても視覚は消える。ということはこれらの経路はすべて道具だ。脳も目や手と同じ経路である。
では、見る主体はどこにある?・・・と問いたいところだが、このように問うことは間違っている。それはどこにもない。ということは、こことかそことかいう語はわれわれのいわば発明した空間という観念であるからだ。空間を前提とした身体について、どこそこと言える。が動く主体たる生命は、空間とは異なるカテゴリーに属する。・・・ある神秘な領域。われわれが真に生きている領域。われわれが描く表象でない領域。
見る主体はどこにある?-まあ、しいて言えば、視覚野の向こう側、と比喩的に言えるかもしれない。



関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。