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斎宮行き1

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 斎宮は三重県の松阪と伊勢の中程にある。ずいぶんだだっ広い野原のような公園になっていて、その一角に、平安時代の斎宮とおぼしき建築群の模型が造られている。その公園を突き抜けていくと森があり、その中に斎宮歴史博物館がある。

斎宮1
斎宮2


 ここのパンフレットには、「斎宮とは、天皇が即位するたびに選ばれて伊勢神宮に仕えた斎王(いつきのひめみこ)の宮殿と、彼女に仕えた官人たちの役所である斎宮寮」と書かれている。これはいつ頃からあったのか不明であるが、制度化されたのは、天武天皇の御代であるという。

 斎王は、未婚の内親王(天皇の娘)や女王(皇族)の中から占いで選定され、京で潔斎の後、5泊6日の旅でもって斎宮に到着。以後、天皇が代わるか、家族の不幸などがなければ、ここに居続けることになる。斎王は、いわば天皇の名代として、伊勢神宮に仕えるのであるが、普段の生活は都風であったらしい。

 昭和45年に始まった発掘調査によって、徐々に斎宮の全貌が明らかになりつつある。一昨年、平安時代後期の斎王の居所とおぼしき一画から、大量の土器が出土し、その中に「いろは歌」が書かれた破片が見つかったというニュースがマスコミを賑せた。

いとは歌1 いろは歌2


 一度斎宮に行ってみたいと思っていたおりから、4月29日その「いろは歌墨書土器」についてのシンポジウムがあったので、ちょうど季節もいいし、訪れた。四人の演者の語る所を、かなり不十分ながら簡単に紹介しよう。

◎この小皿の断片の墨書文字は、内面は「ぬるをわか」と、外面は「つねなら」または「うゐのお」または「ゐのおく」と読め、おそらく「いろは歌」の一部であろう。そうであるならば、ひらがなで書かれた「いろは歌」の最古の資料となる。11世紀後半~12世紀前半。

◎「いろは歌」は47文字を重複なく用いた歌であり、それは「手習い歌」であって、文字の習得や辞書引きとして用いられてきたのであろう。現存する最古の「いろは歌」は、1079年の『金光明最勝王経音義』であるが、それは万葉仮名(以呂波…)とカタカナである。木簡では12世紀後半以後のもので、カタカナ・ひらがな書きである。

◎紙より土器のほうが入手が容易であり、出土品は習書であろう。また『伊勢物語』69段にあるように、宴席などで器に墨書することはある。(以上s先生)

◎平安時代の平仮名資料には二種類あり、平安時代前半には、実用的な文書で使用されていた。平安時代後半に入ると和歌や物語などに使用されるようになった。今回の出土土器に書かれた書体は、実用的な書体と共通であるようだ。

◎この土器の墨書は、同じ文字を書いていたり、重ねて書かれていたりで、習書として使用されたと思われる。字体は、〈わ〉〈か〉〈つ〉〈ね〉〈な〉に関しては、平安中期~末期のものに一致する。逆に、初期の平仮名書きいろは歌の字体が分かる。(以上y先生)

◎源氏物語を考えるに、11世紀には紙は普及していたと考えられ、どうしてわざわざ書きにくい土器に書かねばならなかったのか。それは一つには筆馴らしのためではなかったか。

 ◎土器の底に番号をふるとすると、漢字なら一字でかけるが、平仮名で書くと、いろはの順で複数の字数がいる。漢字を読めない人のためにはこれがよい。(以上f先生)

 ◎11世紀末の文献では斎王に仕える女官制度は整備されていた。堀川天皇の御代の斎宮は善子(よしこ)内親王であるが、源氏物語の六条御息所ではないが、その母道子も斎宮について行き、女官を補佐。道子は、遠縁でもある藤原行成の書の流派を引く能書家であった。出土土器の内面でもっとも判定の難しい文字〈を〉は、伝成行の〈を〉の一つによく似ている。ひょっとして、これは道子あるいはその女官たちによって書かれたものかもしれない。(T先生)

 というようなことで、「いろは歌墨書土器」の出土はいろいろな想像をかきたて、今後さらなる発見が期待される。


  
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