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大正天皇御製詩3

   
 
「明治32年、嘉仁皇太子21歳。沼津御用邸より軍艦「浅間」に乗って神戸の舞子の浜の有栖川宮別邸に向かわれた。10月19日、出航。その夜、軍艦は遠州灘を通る。折から満月が皓々と海を照らす。ここで生涯の名作が生まれる。

 遠州洋上作(遠州洋上の作)

夜駕艨艟過遠州  夜艨艟に駕して遠州を過ぐ
満天明月思悠悠  満天の明月思い悠悠
何時能遂平生志  何れの時か能く平生の志を遂げ
一躍雄飛五大洲  一躍雄飛せん五大洲
 
 夜、軍艦に乗って遠州灘を通れば
 空には明月が皓々と輝き、思いは広がる
 いつか、日頃の念願を果し
 世界へ雄飛したいものだ

 この詩は伊藤博文が色紙に書いて新聞に発表し、当時評判になった。」(石川忠久著『漢詩人大正天皇』)

 西川泰彦氏が伝える所によれば、皇太子には海外への御旅行を強く願望しておられ、時の東宮補導顧問であった伊藤博文に、御父明治天皇にお伺いを立てられたところ、それにはまずフランス語の習得が先決との仰せにより、皇太子は御熱心にフランス語習得に励まれた、とのことである。

 思えば、大正天皇こと嘉仁皇太子は、歴代天皇の中で、初めて外国とくに西洋に行ってみたいと本気で望まれた人であった。それは時代的に、ヨーロッパ諸外国の皇族、皇太子が遠く海外視察に出かけるようになったこととパラレルであり、それはまたわが国が西洋諸国と帝国化=近代化という点で足並みを揃えるようになったことを意味する。

 石川氏は、この御詩は皇太子の漢詩の先生であった三島中洲作「磯浜望洋楼」の影響があったのではないかと書いている。

 「明治6年、三島は、下僚を引き連れ、太平洋を望む楼上で詠じた。

 夜登百尺海湾楼  夜登る百尺海湾の楼
 極目何辺是米州  極目何れの辺りかこれ米州
 慨然忽発遠征志  慨然忽ち発す遠征の志
 月白東洋万里秋  月は白し東洋万里の秋

 夜、海辺に立つ高楼に登り、見渡せばどのあたりがアメリカなのか、思わず遠くへ行きたい心が湧き上がる、檻から秋の明月が皓々と東の海を照らしている。

 この詩は、明治の書生の心意気に合致し、当時喧伝されていたことでもあり、皇太子が自然に影響されたと考えるのは不自然ではない。広々とした海、そして皓々たる月を背景に、遠い世界への旅を夢想する状況は酷似している、また用語も共通する。
 
 皇太子の詩の出来ばえは、肩肘張らない自然の力が秘められている趣を感ぜしめ、師に勝るものがあるように思われる。」

 石川氏のこの意見を聞いて、何度も口ずさんでみると、なるほど嘉仁皇太子の御詩のほうが、展開が自然であり、率直であり、開かれていて、気持ちがいい。


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テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umama01さん。重厚ですね~

親王の心を詠める、

海上に月の光のきらめけば
     心にかかる欧州の空

No title

未見太郎さん、コメントありがとう。
仰るとおりですね。
また生母でなかった皇后を母としなければならなかったことも、御成長に何らかの影響があったかもしれません。遠眼鏡事件は、確たる証拠もなく、後になって作られた逸話らしいですね。

No title

月白の 照らし東の 海原に
漫ろ神見ゆ 海の高楼

私の才ではこれが、限界でした。
やっぱり難しい……けど、こういう制約が面白くてまた挑戦してみました。

No title

初めておじゃまします。大正天皇のことは、例の紙を巻いて望遠鏡の逸話と、病弱であられた、ことぐらいしか知りませんでしたが、このブログの中の詩歌を拝見して、幼少時から大人たちばかりに囲まれた、境遇の寂しさの中で、遠い世界に憧れる心情が、痛ましさと共に私たちと一緒の人間であられたのでは、と、ほっとします。

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