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自然の美

毎年のことではあるが、この季節には空の美しさにハッとする日がある。日中はまだ暑いけれど、空気が澄んで、とにかく雲がダイナミックである。真っ白の威圧的な泡が重なった入道雲があちこちに立ち現われ、そのずっと上空に書の名人が大胆に刷毛でさっと履いたような雲や、規則正しい鱗模様の流れるような鰯雲が自由に泳いでいる。

 この季節はまさに夏と秋の交差点であると言えるが、空は実は深い層をなしていて、疲弊した夏の上に勢力を増した秋がゆうゆうと乗りかかっているという構図である。いったいこの美しさ、ダイナミズムをどう表現したらいいんだろう、と思いながら、ただただ唾を飲み込んで空を見つめるばかりなんだ。

 思えば自然に感動することはよくある。今の季節は他に、虫の鳴き声だ。我が家は今年は大分雑草を取ったせいか、虫が少ないのが残念だ。苦手な夏が始まる頃、いつも思うのはお盆が過ぎれば虫の音が聴ける!と自分に言い聞かせる。耳をすませると三種類ほどの虫の鳴き声がある。小生は耳が多少悪いのか、微かな鳴き声は他の人には聴こえても、聴き取れないことがある。この時ばかりは難聴になるのを恐れる。

 先日、出張で新幹線に乗って西に向かった。やはり、木曽川、長良川や養老の辺りの景色の美しさには心を奪われた。静かな川面を取り巻く植物のやわらかさ、広いまっ平らの地平から、急峻な山のふもとにかけてかかっている靄の静寂。このとき小生はどこかで見た墨絵を思い出しているのかもしれない。

 景色を見て、まるで絵のように美しいと人は言う。この言葉は意味深長である。すなわち絵はまず美しいものである。では、その美しい絵を描いた画家はなんでそれを描いたのであろうか。美しい絵を描こうと思ったのであろうか。どうもそうではないような気がする。

 自然を見て絵のように美しいとは言っても、絵を見て自然のように美しいとは一般に言わない。ということは、絵の美しさは切り取って生じたものだ。切り取ったとは言っても、べつに額縁のように四角い境界で切り取ったからではない。それもあるかもしれないが、それよりも自然の豊富さからあるものだけを抽出したというものではなかろうか。

 あるものを抽出したということは、他のものを捨てたということだ。それによってあるものは必然的に強調されることになる。ということは、自然のいわば無秩序さから統一した秩序、形式を創りだすことになる。ここにわれわれが感じる美が生じるのではないのか。したがって、新たな発見に応じての形式がいくらでも生じうる。

 画家の目は、自然の中にわれわれがなかなか見分けにくい隠れた特殊な色彩や線や感情を見分け、倦まず弛まずその分布を追う。そして、おそらくそれはまだ出来上がったものではなく、いわば情念とか観念とか言った方がいいような状態であって、彼らはそれに物質的な形式を与えようとするのであって、それには大変な努力が要るのではないのかな。

 モネやセザンヌは思いつきを試みたのではないし、心の中の空想を描いたのではない。人一倍大きな目で自然という事物を見つめ、自然がふっと漏らした秘密の尻尾を捕まえ、その紆余曲折を執拗に離さず追い、それにもっともふさわしい形と色を与えようとしたに違いないのだ。

 だからこそ彼らの作品によってわれわれは説得させられ、彼らの作品を通じてわれわれは自然を見る。われわれが自然を見て感動するとは、芸術家の諸作品によって影響させられたわれわれが、その諸形式を通じて、自然を見ているのであって、この時われわれは自然をただ漫然と見ているのではなく、自然を分析し、そのなかの諸感情を再体験しているのではなかろうか。

 そう言うと、では子供や大昔の人たちや、絵画をあまり見たことのない田舎のおばあさんたちは、自然の美しさを知らないのか、という疑問が浮かぶ。

 決して、そんなことはない。子供も原始人もおばあさんも、自然の美しさに感動する。ということは、われわれはみな初めから芸術家の萌芽をもっているということではないのか。子供のとき、沈む夕日と茜色の雲を見つめて時の経つのを忘れたとき、自然が偶然強調して見せた一部を辿っていたのではないのか。ただ芸術家の努力をもたないから、それ以上にはならないけれど。

 それで思い出したが、こんなことがあった。あるとき飲みほした缶ビールを何気なく手でくしゃくしゃに凹ましたんだ。テレビでも見ながら、あるいは家族と話でもしていたのだろうか。そしてそれを机の上に置いた。しばらくして、それをふと見たらその形が素晴らしいものであることに気が付いた。そうして、これは偶然であるとしても、じつに見事な造形だとますます感じ入り、自分の机に大事に置いておいた。ところが2・3日してそれが無くなっている。訊くと家人が当然のように捨てたのであった。残念に思ったことこの上なしだった。そして感性の鈍い家人を憎んだ。

 自然の美しさも、偶然が産んだものであるにしても、それは漠然とした広がりではなくて、ある部分が強調されており、それをヒントとして、われわれは芸術家から影響された分析力のメスを加えているのだと思う。


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テーマ : art・芸術・美術 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

未見太郎さん。いい思い出をもって幸せですね。仰る記憶の切り取りとは、また考えさせられますね。
一般にわれわれが、ものを知覚しているとは、外界からほんの僅かなヒントと殆んどの記憶から成り立っています。だからこそ、スムースに行動できる一方、とんでもない間違いをしますね。真っ暗闇に二つの光点を連続して点滅すると、われわれは一つの光点が動いたと知覚します。これ習慣的記憶のおかげの誤った知覚ですね。

芸術とは、このような日常的な習慣的記憶を排除したところの知覚から成り立つように思います。

美しいって感じることはどういうことでしょうね。思い出はただ思い出であって、〈美しい思い出ではなく、思いだすと美しい〉、というものだと思います。 つまり、美しいはつねに現在形だと感じます。

No title

umama01さん。そういえば、嗅覚や触覚の芸術はあまりないですね。香道ってのがありますが、あれは何の匂いか当てるらしいですね。味覚はさまざまな料理ですか。触覚は、本当に原始的な感覚ですが、あらゆる感覚の基礎にあるような気がします。
uamama01さんが体験された、匂いと風と光と色彩の総合が一瞬にしてもたらしたものは、どう考えたらいいのでしょうね。本来全く異質な諸感覚が・・・。まさに恩寵ですね。これは一考の要ありです。

No title

私は、特にうたのすけさんのように芸術家としての萌芽さえももちあわせておりません、が、絵は美しいものという感覚はその当事者の好みの感覚から、余分な(記憶)を切り取ったということでしょうか。
私の記憶に残る二つの自然のシーンは、休耕田に広がった蓮華草の群生のピンク、背景に工場の煙突がある菜の花畑の黄色と沈む夕日の色です。
絵画が先か自然が先か?浦島太郎の童謡の歌詞・・・・・(竜宮城に来てみれば絵にも描けない美しさー♪・・・・・・)をおもいだしました。

No title

私は雨上がりの新緑、突き抜けるような晴天の蒼、雲間から射す幽かな陽光、深夜の月光、解けかけた樹氷のトンネルに朝日が差し込む乱反射のトンネル。
そういう光景に対し、ふとした瞬間、目を奪われた覚えがあります。
とは言え、それらのどれもが、匂いと風の感触、陽の暖かさなど、絵画だけでは表せない要素が混じりあった結果の、一瞬の奇跡みたいな瞬間だった訳ですが。

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