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継体紀 1

 「武烈かくれたまひて皇胤たへにしかば、群臣うれへなげきて国々めぐり、近き皇胤を求めたてまつりけるに、…」(神皇正統記)とあるように、いかな不徳の天皇でも日本には天皇が必要であって、その存在は血統によって確証されるものである。

皇統の危機を感じた諸氏族の代表者らは、全国に皇胤を求める。そしてついに見つけだされた人が男大迹(おほどの)王つまり継体天皇であって、その場所は三国(いまの福井県)である。

そういうことで、継体天皇には謎がまとわりついていて、諸先生方の中には、『継体紀』は、「男大迹天皇、誉田天皇、五世の孫、云々」つまり、継体天皇は応神天皇の五世の孫である、という他の天皇紀ではありえない書き方で始まっている意味は、つまりこの五代というのが、じつは皇統ぎりぎり(つまり六代となると皇統をはずれる)で、かろうじてセーフである、そのようにしたのではないか、と言っておられる。

また、継体という名前である。継体は君主の位を受け継ぐこと、という一般的な普通名詞であって、これを天皇の諡号にしたのはいかにも不自然である。聞くところによると、なんでも奈良時代に淡海三船がつけたらしい。もちろん『日本書紀』が書かれたのはそれより何十年か前のことだが、そのときは男大迹天皇(おほどのすめらみこと)など和風の諡(おくり名)で書かれている。われわれが今読んでいる例えば岩波文庫の『日本書紀』はその何百年後の現代文に直されたものである。

井沢元彦氏も、すべての天皇は〈正統を継いだ者〉であるから、継体天皇であるにもかかわらず、何故この天皇だけに諡号に普通名〈継体〉をつけたか、それはむしろ、じつは正統な後嗣ではなかったからではないか、と言っている。そして、津田左右吉博士の指摘、「武烈天皇紀にある天皇のことを書いた所がいずれも主なる点は支那(中国)の書物から取られたので、その言葉その文字が殆んどそのまま取ってあるところがあります。…そしてそれは殷の紂王(ちゅうおう)らしい」ということから、殷の紂王に比定される武烈天皇を継体の前に置くことによって、じつはこのとき〈易姓革命〉が起こったのだ、と論じている。

あれこれの疑問を頭にもって『書紀』を読んでみると、なるほどこの天皇の足跡も変わっている。生まれは三尾という琵琶湖の西岸中程の所、育ったのは福井の三国、ここで大伴金村大連らに発見されて、天皇になってくれと懇願されるが、自分はそのような器ではないと「西に向かひて譲りたまふこと三たび、南に向かひて譲りたまふことふたたび」、中国文献まる写しって感じでしょ。そしてついに天皇になって、最初に都を置いたのが、58歳のときで、河内は淀川のほとりの樟葉、次にその南東の筒城、そして弟国という今の高槻市あたりに、そして大和(奈良県桜井市あたり)に入ったのがやっと20年後。
この間、継体天皇は、尾張、河内、越、近江…の諸豪族の娘を后にしている。琵琶湖を中心に、若狭湾、大阪湾におよぶ海湖水を制しする狙いがあったと思われる。

明くる年、筑紫の国造、岩井が反乱を起こす(岩井の乱)、朝鮮半島をめぐって、外交上の失敗が相次ぎ、諸豪族が緊張した状態にあった。


  
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umamaさん。そうです。高齢すぎますね・・・、この人は慎重にじっくり事を構える人物だったようです。主要地域の娘を娶りつつテリトリーを広げていったのでしょうね。強いて言えば家康型ですかね。それが長生きの理由かも。

No title

三顧の礼、ですね。
しかし、58歳って当時にしてみれば、凄い高齢っぽいのですが、そこから20年後って……。

個人的には政略結婚っぽいのですが、各地の豪族の娘を妃にって行脚がなかなか魅力的に思えますね~。

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