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戦闘機乗り

先日、太平洋戦争研究家のK氏のお伴で92歳になるOさんを訪ねた。Oさんは戦争中戦闘機のパイロットであった。そのときの話を詳しく訊きたいと思って訪ねたのであった。Oさんは左脚が不自由であるほかは特に悪いところがなく、頭はまったく明晰なのに驚いた。そのお話。

 Oさんは、高等小学校2年就業の後、乙種飛行予科練終生となり、戦闘機のパイロットとなるべく3年ほど飛行訓練を積んだ。当時、戦闘機パイロットとなるコースに入るには親の承諾が要った。Oさんはすでに父は亡くなり、兄は養子に出ていて、Oさんは跡取り息子であった。それで係員はOさんにパイロットではなく整備士になることを奨めた。が、母は、誰でもいつかは死ぬものだからと言って、とくに息子の志望に反対しなかった。母は仏教の信仰に篤かったそうだ。

 Oさん自身は、体はとても小柄で148 cm しかなかったが、運動はとてもよくできた。そして、体の小ささをカバーするために運動能力に磨きをかけた。

 その後、広島、大分、横浜などの飛行部隊に専属し、実地訓練を積んだ。その時の日本の戦闘機は96式戦闘機というもので、操縦席の風防は前面だけだったそうだ。昭和18年だったか、いよいよ外地へ出発、上海経由でボルネオまで編隊を組んで飛んでいった。

 K氏の、いよいよ戦闘ともなると恐怖感はなったかとの問いに対して、Oさん答えて曰く、ぜんぜん恐くなかった、この戦争で死ぬはずだから、どうせ死ぬなら華々しく死にたいと思っていたと。

 ボルネオのバリクパパンでは、フィリピン方面からやってくるB24の爆撃にだいぶん基地が痛めつけられたが、Oさんたちは果敢に立ち向かい、Oさんは、自分が撃った弾で確実に一機は打ち落した、その時の感覚が忘れられないようだった。ゼロ戦は徹底した軽量化により運動能力が優れていたし、独りで乗る操縦席が体にフィットして操縦しやすかったそうだが、このときOさんが載っていたのは雷電という戦闘機で、これは1800馬力で20ミリ機関銃が4門ついていた。かなりの高度飛行が可能で上空から必ず反転して真っ直ぐにB24めがけて降りる、近づいたら機関銃を打ちに打つ。それに対して、敵機からの銃弾の雨あられが、眼前に展開する。

 昭和19年10月、Oさんの乗っていた戦闘機のエンジンに敵弾が命中、すぐさま基地に進路を向けたが、滑走路に着く前にジャングルに降りた、とはいっても、飛行機は破壊し、Oさんは一時気を失っていたそうだが、気発性の強いガソリンの臭いで気が付いた。これは危ないと感じ操縦席から離れようとしたが、左脚が動かない、どうやら付け根が折れたようだ。ということで、腕の力で脱出。操縦席から1メートルくらい下の地面に転がり落ち、しばらく這って機体から少し離れたところで呆然自失の態で空を眺めていた。こういった場合、十中八九ガソリンに引火して爆発するのだが、そうならなかったのはあまりにも幸運と言うべきだったと、OさんとK氏は口をそろえて言う。

 監視していた基地から即座に救護隊が駆けつけたが、なにせジャングルの中、容易には進まない。そんなに遠くない所なのに、ようやく見付けられたのが6時間後だった。木とパラシュートを切って作った簡易担架に揺られた時、はじめて患部に激しい痛みを感じた。つまりそれまではまったく痛みを感じなかったのだ。

股関節部が砕かれただけではなく、9本の歯が折れ、額から顎まで深い傷を負い、とりあえず、基地の医師に皮膚だけは縫ってもらった。もし、乗っていた飛行機がゼロ戦だったら、間違いなく死んでいたという。というのはゼロ戦の場合、目の前に操縦桿があって、これに顔面をぶち抜かれていたにちがいない。雷電の操縦席には防護版があって、これにうまい具合に顔が当たったらしい。それにしても、出血多量で死ななかったのが不思議だとOさんは繰り返した。

 そして、この年(昭和19年)12月28日病院船に乗って帰国の途に就いた。帰国してから、東京で名医による股関節の手術を二回受けたが、完治はしなかった。それで今なお左脚が右に比べて20cm短く、歩行がスムースにできない。

K氏が言うには、もしOさんの戦闘機が銃撃を受けず、無事に基地に戻れたなら、たぶんOさんの命は、逆に失われていたであろう、と言う。なぜなら、ちょうどそのころフィリピン方面において特攻作戦が始まっていたからである。

吉凶は糾(あざな)える縄のごとし。Oさんの母親は、昭和19年5月の名古屋空襲で、たまたま遅れて落された焼夷爆弾が家に命中し、亡くなった。子供を抱いて外に居た姉は無事だった。Oさんは戦後、結婚し、愛知時計に停年まで勤め上げた。そしてK氏の質問のままに、最後の階級は、軍人恩給がいくら、戦友会がどうのなど話していたが、まあそれはいいだろう。


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

そちらはもうEs schneitなんでしょうか。

こんばんは、淡青さん。

あの時は大抵の若人はきっとそう感じていたのじゃないでしょうか。

小生、平和な時代を生きているときは戦争はいかんと思っていても、国家危急のときは平和主義を唱えていてはいかんと思うようになるだろうことは、容易に想像できます。

まあ、それでも、じっさい戦地に立ったら怖くて脚が動かなくなるかもね(笑)

小生の祖母は104歳で死にました。しかしその子である母は74歳で死にました。小生は母に体質が似ているので、早めでしょう。しかし、寿命がいつ尽きるは神のみぞ知る。

おたがい、あっと言う間の人生を楽しく生きましょう。

早いもので霜月

ご無沙汰しておりますが、うたのすけ殿には
お変わりもなくお元気そうでなによりです。

戦争で死ぬのは当たり前と当時も本当にそう思われていたのでしょうか、

年取って美化してるのか、それとも若さゆえの流行り気なのか…

こういう運の強い人の話を聞くと何やら戦争も致し方ないとか
なんとか機運にもなりそうな〜、

広島で原爆にあって、長崎に逃れたらまたそこでもピカドンで
それでも80歳以上も生きた人の話もありましたな〜

でも多くの人は即時に死に絶えていくのですよねっ!

うたのすけさんにはくれぐれもお身体に気をつけて
とりあえず100歳までは生きてくだされ!

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まとめ【戦闘機乗り】

先日、太平洋戦争研究家のK氏のお伴で92歳になるOさんを訪ねた。Oさんは戦争中戦闘機のパイロットであった
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