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貞明皇后御歌1

 貞明皇后。と言っても、たいていの人はよく知らないだろうけれど、皇后と名のつくからには、たぶん明治・大正・昭和の皇后だろうと見当をつけるだろう。小生も五年くらい前までは知らなかった。

 要するに、大正天皇の奥方であって、つまり、昭和天皇の母君、ということは、秩父宮、高松宮、三笠宮各親王の母君であらせられた。しかし、いろいろ調べてみると、この方は、なかなかどうして、国母というにふさわしい深くて広い心であられたとの評判がもっぱらである。

 そして何より、生きた時代が明治・大正・昭和、しかも戦後を見届けてから、昭和26年に亡くなった。つまり日本が近代化を急ぎ成し遂げ、結局は欧米列強の前にひれ伏し、廃墟となった日本を、東京のど真ん中に居て見てきた人なんだな。この人はどのような心持で生きておられたのか。

 貞明皇后こと九条節子(さだこ)は、明治17年(1884年)、東京神田に生まれた。九条家と言えば、旧摂家であり、当時父の九条道孝は公爵であったが、生母は側室であったという。が、もちろん九条家の御姫様であったことには変わりがない。

 節子姫についてどうしても言っておきたいことは、この人は生後まもなく五歳になるまで他家で育てられたことだ。もちろんそういうことは珍しいことではないが、幼児のときの環境がその人の性格形成に大きな影響を及ぼすものであり、とくに節子姫の場合、おおなから村人によって育てられたことが後の貞明皇后のいわば野趣に富んだ、豪胆な性格を形つくったように感じられる。

節子姫は生後7日目にして、当時農村地帯だった多摩郡高円寺村の豪農である大河原家に預けられた。乳母のいる家を探し求めていた父道孝の、たくましく育つようにというたっての願いだった。大河原家の奥さんの〈てい〉は、生後すぐ赤子をなくし、母乳は有り余るほど出た。
 『貞明皇后』(主婦の友社)によると、中を取り継いだ近所の人との、こんなふうにエピソードが書かれているが、さもありなんと思われる。

大河原氏 「お公卿さまのお姫さまだって? そりゃ、わしのところのような百姓家では、勿体ないよ。それに野良が忙しくて、とてもかまっていられないしね」

 取り次人 「いや、先さま(九条家)では百姓家がお望みで、自分の子供同様に育ててくれとおっしゃるのだよ。箱入り娘扱いなら、わざわざ里子に出す必要はない。農家に里子に出して、乳母になる人の清潔な、健康なお乳をたっぷり吸わせ、世間の風にもあてて、強く逞しく育てたいというのが、そのお公卿さまのお邸の、昔からのしきたいというこどだよ」

 大河原氏 「ふうむ、そうかね。そういうことなら、おていにもよく相談してみなくちゃあ」

 取り次人 「ぜひ頼みますよ」

 そうして大河原家の人たちは、〈わが子のようにして健康に育ててほしい〉という要望だけをしっかりと頭に入れておいて、けっして特別扱いにはしなかった。また忙しい農家のことなので、たとえそうしようと思っても、そんなゆとりはなかったそうだ。

 節子姫は、そういうしだいで、大河原家や近所の子供たちといっしょに栗やモモを採り、トンボを追い、麦笛を鳴らしながらあぜ道を走るような生活を楽しんだ。乳母のていは信心深かったので、幼い節子も自然に神だなや仏壇の前でぬかずき経を口にするのだった。

 あるとき大河原夫妻がちょっとした口げんかをした。しだいに声が大きくなっていった二人を見つめていた節子は、とつぜんお膳の上の箸をとり、それで養父のあたまをぴしゃりと叩いた、二人はびっくり、我に帰り苦笑したそうである。

 このエピソードを読んでただちに思い出す人がいる。それは、小生の親しい知人であった故Tさんのことである。Tさんも幼少時に似たような体験をしたから。Tさんは、とても心の大きい人であった。同時に子供のように純粋なところも終生持っていた人だった。小生がある時どうしてもお金が必要だった時、二つ返事で一千万円を貸してくれ、借用書を書こうとする小生を諫めて、「そんなもん書かんでええ、無理せんでええ、返すのはいつでもええんや。」と言ってくれた。誰に対してもそうだった。

 また、Tさんは、通りがかった家の庭にえも言われず綺麗な花が咲いていた時、どうしてもそれが欲しくてたまらず、冷や汗をかきながら、「ごめん」と言って、その一つを黙って取っていくようなことが一再ならずあった。もちろん、税金を誤魔化そうとか、少しでも得をしようとかいう、ケチくさいことは無縁であった。こんな大きな人に出会うことができたことは、小生のこのうえない幸運だった。

 このTさんは、両親が駆け落ちをしてできた子で、生後しばらくして、母親の両親に預けられ、5歳まで、福島の田舎のおじじ・おばばの下で育てられたのだった。その時の暖かい雰囲気と、ついに両親のもとに引き取られ、祖父母と別れねばならなかった時の悲しみを、何度も語っていた。

 幼児時に両親と離れて、暖かい雰囲気に育ったからこそ大きな人間になれた、とは言うつもりはないけれど、それにつけて思うことは、今の親は自分の子供をあまりにも排他的に愛してしまい、自他の区別や規則をあまりにも重んじて、結局子供をがんじがらめにして、親子ともに小さくなってしまっていやしないか。
 




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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

新年のご挨拶

おお、淡青さん。新年のご挨拶が遅れました。年末年始というのは、周りにペースを狂わされて、どうも小生は好きではありません。が、まあとにかく年があらたまりました。
そうですね、いつの時代も、権力側は天皇を根拠に己の正統性を保持しますが、明治政府は、神武創業に還るのスローガンのもと、万世一系を強く押し出しましたね。小生、明治天皇が孝明天の実子たることにはかなり疑問をもっていますが、しかし、まったく血縁がない人だとは思いません、傍系でしょう。継体天皇と同じです。ということは、それほど、血筋を、とくに男系の血筋をー重んじているという証拠ですね。まあ、日本民族は、大昔よりそういう物語―天皇は天照大神の子孫―を生きている民族なんですね。
したがって、日本は民主主義国ではありません。デモクラシイよりこういう物語(文化)が大事なんです。
天皇はこの文化の中心です。だから、象徴というなんか竹輪豆腐のような観念的な抜けた名称より、元首とした方が、なんかしっかり実態的でいいとは思います。いっぽう、他の国々の、王様や大統領とは全く違う、いわば翻訳不可能な天皇ですから、その意味で、象徴とぼやかしておくほうが実態に近いかもしれないですね。
まあ、言葉はともかく、幸か不幸か、天皇には、われわれのように政治に口出しする権利は禁じられているのですから、役割は現行憲法のごとくで、それほど名称にこだわらずともいいじゃないですか。
小生なら、祭主あるいは祭祀王とでもしたいけれど、形だけでも国事行為をなさりますから、やっぱり、対外的には元首のほうがいいかな。
とにかく、Westfalischen条約なんかとは無縁の島国である神国日本が西欧流の国家という概念といかに折り合いをつけていかねばならないか、明治維新からずっと我々に課せられているている難題であると思いますが・・・。

No title

umama01さん、そうでしょう、小生は理想的には多くの人が多くの子供たちを一緒に育てるのがいいと思いますが、現実にはそれはなかなか難しそうですね。親は子を自分の飼い猫だと思っているからね。
しかし忙しい父母だけで一日中みるというのは、苦しい話ですね。おじいさん、おばあさん、叔父さん、叔母さん、いっしょに住もうよ。何?みんな忙しくってだめって・・・。それに教育方針も違うし、気が合わん。別々に住む方が気楽でいい。まあこういう時代です。それじゃ、どんどん長時間保育所を造りましょう。そのための沢山の人材がいる。すると入所費もかかる。そのために父母は一生懸命働く。考えただけで汗が出てくる話。

あけおめ?!笑

うたのすけ殿、

新年のご挨拶を申し上げます。

ご挨拶をお喜びにすべきなんでしょうが・・・
でも正直者なのでぇ~   笑

明治、大正、昭和の天皇考察の動画をみていて、
側室をもたれなかった大正天皇、その皇后に興味が
あったのでまさにこの記事は興味深く読ませていただきました。

明治以降の天皇家は明治維新によって作られた血筋であるという資料もあり、あらためて憲法改正を目論んでいる自民党の天皇を象徴でなく元首として組み入れようとする平成維新の意図がわかるような気がしています・・・

うたのすけ殿のお考えをお聞かせくだされば嬉しいしだいです。


No title

 良い話ですね。
 ちなみに私は子育ては母親に祖母の二人三脚が最も適していると考えております。
 だって経験値が違いますからね~。
 虐待や育児放棄なんざ、誰か他の目がある時点で、したくても出来ませんよ。。。

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澄み濁るをば神ぞ知るらん

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