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貞明皇后御歌2

1888年(明治21年)、節子姫は、養家の大河原家から実家に引き取られた。その二年後、華族女学校の初等小学科に入学。学校では、一番小柄な方であったが、才気にあふれ行動的で、クラスの人気者になった。ある日、休み時間に笑い芸人の「オッペケペー・・・」という自由民権謳歌をとつぜん歌った。深窓のクラスメートはびっくり仰天した。このような、よく言えば明るく、物おじしない性格は、この後ずっと続いたのだった。

 またこれもよく引き合いに出されるエピソードだが、初等中学科に進んだ13歳の時、いつもの快活さには似ず、物思いにしずむことがあった。クラスメートが理由を訊くと、なんでも、通学路にある雑貨屋に色の透き通るような美しい娘さんが寂しそうに座っている、どうしてあんな美人がお嫁にも行かずに店で座っているのだろうと不思議に思っていたところ、巷のうわさで耳にしたのだが、彼女は、不治の病であるライ病に侵されているとのことであった、という。このささやかな、しかし深刻な経験が後に貞明皇后をして終生救ライ活動に専念させることになったのですね。

 1896年(明治32年)、中学科三年の夏休みに、皇太子であられる嘉仁親王の妃に内定した。もちろん御両人会ったことも見たこともないが、家柄と健康さえ満足であれば、それでいいのですね。じつはそれ以前に、伏見宮貞愛親王の第一王女禎子(さちこ)姫が皇太子妃の第一候補であった。禎子姫は色白の、気品にあふれた、いかにも深窓の令嬢であったが、どうも病弱であったらしく、最終的に外されたとのことです。

 1899年(明治33年)、嘉仁皇太子と婚約。節子ときに15歳。この報を聞いて、高円寺村の大河原夫妻は腰を抜かさんばかりに驚いた。そして、節子姫が残し置いた着物・玩具・調度品などを、この屋敷に置いておくのは申し訳ないと、そのすべてを九条家に送り返すか、浄火で焼いた。小生だったら、卑しい考えが起こって、お宝になるのではと一品ぐらいは手もとに残しておくような気がするが・・・違うね、お百姓とはいえ、心がけが。いや、だからこそ、九条道孝は娘さんをこの夫妻に託したんでしょうな。

 節子姫は「思い出の品がみんななくなったら、じじもばばも寂しいことでしょう」、と言って、和歌を色紙にしたため大河原家に贈った。

 昔わがすみける里の垣根には
   菊や咲くらむ栗や笑むらん

 ものごころ知らぬほどより育てつる
   人のめぐみはわすれざりけり


 節子姫、16歳。いよいよ東宮妃としてのきびしい教育が待ち構えていた。




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コメント

No title

umama01さん、節子妃の御歌は概して解りやすいです。しかし、もう少し後には、難しい古語も出てきて、これ?と思うこともあります。そして、また「らむ」という推量の助動詞がよく使われているのが特徴かな。

No title

上手いかどうかは兎も角、良い歌だと思いますね~。
単純で、だけど明確に言いたいことが分かる歌。

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