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貞明皇后御歌3

  

1900年(明治33年)5月10日、嘉仁皇太子と節子姫の御結婚。束帯姿の東宮殿下と十二単の節子妃は、賢所内陣にて玉串を奉じ、お告文を奏せられ、さらに皇霊殿、神殿に玉串をおささげになった。これ本格的な神前結婚式の嚆矢なり。

 伊勢神宮と京都御所などに巡啓し、東京へ帰られたお二人は、赤坂の東宮御所で新生活を始められた。めでたし、めでたし。ところが、節子妃がいくら九条家に育ったとはいえ、宮中はまったく違った世界であった。鉛のように重い伝統や習慣の空気の中を歩かねばならない。

 万里小路幸子(までのこうじゆきこ)という老女官が節子妃の御用掛になった。この老女官は英照皇太后(孝明天皇妃)と昭憲皇后(明治天皇妃)に仕え、宮中奥のしきたりの権化であった。気のお強い節子妃も幸子からの御小言にしばし頭を痛められたようだ。大正7年、83歳で幸子が亡くなったとき、「よくもあれほどまでに私をしつけてくれたものだと、ただただ感謝するばかりである」と節子は述懐している。そして一首、

 さみだれはいとども袖をぬらすかな
   ゆうふべの雲となりし君ゆゑ


 健康な節子妃と天真爛漫な嘉仁皇太子との生活は、円滑で喜びに満ちていたであろうと想像する。その証拠に次から次へと三人の男子が生まれた。嘉仁皇太子は、実の母が二位の局こと柳原愛子(なるこ)であると初めて知らされたのもこのころであったらしい。もし皇太子が並みの生活人であったなら、あまりにも大きなショックを受けたであろう。しかし、嘉仁皇太子は境遇的にも性格的にも、それで落ち込んでしまうというようなことはなかったと小生は想像する。そしてまた節子妃との生活が、あまりにもタイミングよく、皇太子の心の安定に好条件をなしたと思われる。

 この時から、宮廷は一夫一婦制となったと言われるが、皇太子が宮廷改革が必要だからそうしようとしたとは思えない。権典侍制度というのがあって、6名の女官が取り囲んでいたらしいが、そんなものは必要がなかった。それほどお二人は幸福であった。

 それゆえそのころの節子妃の歌はまだ少ない。

 御結婚後二年目の新年梅を歌う。

 梅の花かぞふばかりもさきにけり
  年のはじめの一日二日に
  節子妃

 新玉のとしの始めの梅の花
  みるわれさへにほほゑまれつつ 
皇太子


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umama01さん。人間はもって生まれたものと環境との絶妙な組み合わせからなるもので、それはもう人智を超えていて、方法論は絶望的です。何がいいんやら・・・。

No title

やっぱり、こう……厳しかろうとも過ぎ去った後で「良かった」と言えるのが教育ですよね~。
ただ厳しいだけ、ただ辛いだけなのは教育とは言えません。
そして、ただ楽しいばかりも印象に残らないものですから。。。

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