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貞明皇后御歌4

1901年(明治34年)5月1日の官報号外。

 「皇太子妃節子殿下、今二十九日午後十時十分、東宮御所ニ於テ御分娩、親王降誕在ラセラル。
  明治三十四年四月二十九日 
      宮内大臣  田中光顕   」

 御名 裕仁(ひろひと)。御称号 迪宮(みちのみや)。後の昭和天皇である。

 家々は〈奉祝〉の提灯を灯し、日比谷公園は花火の嵐。御養育主任は川村純義。そうして、迪宮は三年半川村邸でお育ちになった。

 1902年(明治35年)淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王、後の秩父宮誕生。

 1905年(明治38年)光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王、後の高松宮御誕生。

 この年の4月、皇太子夫妻の住居である東宮御所の隣に成った皇孫仮御殿で、三親王はお暮らし始めた。皇孫御養育掛長は丸尾錦作。母節子妃は子供たちと近くに住むことができるようになるも、同じ屋根の下で住むことはかなわなかった。

 時は日露戦争(明治37年)前後。皇太子夫妻は多忙な日々ではあったが、時には三人の子供たちといっしょに楽しい時を過ごすことはできた。そんなときでも将来の元首となりうる皇孫たちと、一般の母子のように、馴れあうようなことをしてはならないと節子妃は身を持するのであった。まだ甘えたくてしようがない年齢の子供たちはどのように感じていたのだろう。

 明治34年の、ドイツ人招聘医師ベルツは、日記に書いている、「東宮は、気遣わしいほどたくさん紙巻タバコをおふかしになる。五時、川村伯のところへ。この70歳にもあろうという老提督が、東宮の皇子をお預かりしている。なんと奇妙な話だろう! このような幼い皇子を両親から引離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた。だめ!お気の毒な東宮妃は、定めし泣きの涙で赤ちゃんを手離されたことだろう。…」

 ベルツの意見が当時の内大臣に影響したのかどうか知らないが、明治38年ころから、水曜日の夜は、両親が御養育所へお成りになり、土曜日の夜は三皇孫を御所に招いての会食をするようになった。そんな時も節子妃は、皇孫たちの行儀作法については一切口出しをせず、楽しげに眺めておられたという。食後のだんらんは、節子妃がピアノを弾き、皇太子が歌を歌った。皇太子は軍歌や世界漫遊の歌などを、大声で歌い、いつしか皇孫たちも自然にそれらを覚えるのであった。

 明治35年の節子妃の御歌から
   ベルツの25年間日本に居れるを祝ひて、
年ながくくすしのわざをおしへつる
   いさをおもへばたふとかりけり


    寒蘆
 浦びとやかりのこしけむかれあしの
   一むら岸におれふせる見ゆ


 明治37年の御歌から

   折にふれて
 風わたる庭のやり水見てもなを
    心にうかぶ海のたたかひ
    
            (日露戦争の海戦)

 明治38年の御歌から

   水鳥
 池水もこほりそめけむをしがもの
    羽ふきの音のさえてきこゆる



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