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貞明皇后御歌6

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1908年(明治41年)
 2月 日米紳士協定なるものによって、日本からアメリカへの移民禁止。4月、ブラシルへの初移民。西園寺内閣から第二次桂内閣へ。そして、西欧では、オーストリア=ハンガリー帝国~バルカン半島の不穏な情勢、という時代。しかしまあ、政治は政治。

   野残雪
 山かげの小野のささはらさらさらに
    春とも見えず雪ぞのこれる

   春曙
 月影はかすみにきえて山のはの
    花見えそむる春のあけぼの

   藤
 紫のいろなつかしき藤の花
    かめにやささむかざしてや見む

    人伝時鳥
 みやこにはまれになりつるほととぎす
    人づてなれどきくがうれしき

    川辺蛍
 夕立のなごりすずしき川風に
    影も流れてゆくほたるかな

 この時の作と思われる漢詩も作られています。貞明皇后はこの頃から大正三年にかけて、漢詩も手掛けられた。おそらく、夫君の影響でしょう。たぶん嘉仁皇太子が「節子よ、そなたも漢詩を作ってみよ」。節子妃「わたくしは、和歌は好きですけれど、漢詩などはとても難しそうですし、柄ではありませんわ」。嘉仁「心配するな。われが教えて進ぜよう。なに難しく考える必要はない。適当に作れば、後はわれか三島が手直しをするぞ。作れ、作れ」なんて、仲睦まじい情景が浮かんできます。

    柳陰撲蛍(西川泰彦氏読み下し)

 新月未だ昇らず楊柳垂る
 群蛍聚散す野川の涯(みぎわ)
 僮(しもべ)に捕獲を命じ嚢袋に満たしめ
 帰りて詩書を照し昔時を思ふ

 その昔、シナの車胤は、貧にして灯火の油を買えず、大量の蛍を捕まえその光で刻苦勉励、大成した。そのことを想い浮かべられたのですね。

 たぶんこの時、御夫婦一緒に作られたのであろう。嘉仁皇太子の漢詩。

    観蛍

 薄暮水辺涼気催す
 叢を出で柳を穿ち池台に近づく
 軽羅小扇しばらく撲つを休めよ
 愛し見ん熒熒(けいけい)去りまた来るを

 こんな話が残っています。大正天皇に権典侍、命婦としてお側に仕えていた椿の局こと坂東登女子さんという人が語った話です。

 「貞明皇后さまがおつむ(頭)がすごくおよろしいのに、大正のお上はまたもうひとつそれにしんにゅうをかけたほどお賢たったもんで、あの三島さんがあの、それこそどうか四書五経っていうですかあれをお上げんなるのに、もう素読あげなさる前にお読みんなるくらいお賢かったですわね。…賢いお方(貞明皇后)さんがおいつけんとおっしゃったくらいお上は天才的っちゅうですかね。お教えせんでもちゃっとお素読遊ばした…あんまりおつむさんが良くってお体がお弱っくあらしゃったんでしょうと思いますね。…」(『椿の局の記』山口幸洋著)


   

    
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