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貞明皇后御歌7

 
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1907年(明治40年)から三年間、節子妃の御歌は多いが、このとき皇太子は全国順啓に多忙であった。原武史著『大正天皇』によると、

 1907年は、5月10日~6月9日に山陰地方。
  10月10日~11月4日に韓国~九州~高知。

韓国順啓は、もちろん伊藤博文の政略であるが、嘉仁皇太子はそんなことより、そこで遇った当時10歳であった韓国皇太子李垠(リギン)に関心を引かれ、同年12月に、李垠は日本に留学することになるが、以後弟のようにかわいがり、李垠のために韓国語の勉強をさえ始めた。

このエピソードが象徴しているように、総じて順啓という完全に政治的なる行程上で、完全に非政治的なる魂が自由に動いているようで、小生には面白い。それはちょうど、少年モーツァルトが、神童ピアニストとして父親にヨーロッパ中を猿回しのように引きずり回された様を想起せずにはおれない。

 1908年(明治41年)、4月4日~19日に山口・徳島。
  9月8日~10月10日に東北地方。皇太子御一家が写った絵葉書が大量に出回った。

 1909年(明治42年)9月15日~10月16日に岐阜・北陸地方へ。

 1910年 栃木・近畿・東海へ。
 1910年 北海道・京阪神へ。

 とにかく、だんだんと明治天皇の名代という色彩が濃くなっていくなかで、嘉仁皇太子は、息詰まるような順啓をこなさねばならなかった。この間、節子妃は、歌を歌うことによって皇太子の帰りを待った。

 明治41年の御歌(つづき)

     撫子
 さびしさをしらず顔にもふるさとの
    庭にほほゑむなでしこの花

     朝蓮(はちす)
 みつつあれどひらきもやらず花蓮
    朝のこころのむすぼほるらむ

     松風追秋
 秋草はまだつぼみだに見せねども
    松ふく風のおとかはりきぬ

     折にふれて
 名もしらぬ小ぐさことごと花さきて
    山路の秋は春にまされり

 東のくもたつ空ぞなつかしき
   君がまします方ぞとおもへば

 万葉ですね…。

    浦擣衣(とうい
 うらなみにまぎるるほどぞあはれなる
   きぬたの音のたえだえにして

    水鳥
 寒かりしよはのおもひもわすれけむ 
   朝日にねぶる岸のみづとり

    
 あさいする窓の戸ちかくむらすずめ
   きてなく声をきけばはづかし

 お若いですねぇ…。

 
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