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貞明皇后御歌15

この頃こんなエピソードがある。
 
 ある冬の霜の降りた朝、一人の少年が皇后の御休所の近くに佇んでいたのを一女官が見付けた。不審に思って、他の女官たちをよんで(この場所は男子禁制なのだ)、その少年を包囲し、取り押さえた。

 少年は年の頃十五、六歳くらい。女官の尋問に震えて答えた、「お情け深いと聞いている皇后さまに一度お会いしたく、なんとなくここへ来てしまった」と。この騒がしさが節子皇后の耳に入ってしまった。

 ところが、皇后はこの少年を不憫にがられ、「こんな冷たい朝、さぞ寒い思いをしたであろう。温かいおかゆでもさしあげましょう」とおっしゃった。

 このささやかなエピソードは、節子皇后の人となりをよく表しているだけでなく、むしろ皇室はどのようにあるべきかを明瞭に自覚されていたことを表しているのではないか、と感じる。

 1915年(大正4年)

     海辺梅雨
 あま人のかるもほす日やなかるらむ
    晴れまも見えぬさみだれの浜


 1916年(大正5年)

     貧民
 うゑになきやまひになやむ人の身を
    あまねくすくふすべもあらぬか


 皇后という立場になられて、筧博士によって〈神ながらの道〉ということに目覚めることによっておそらく、では現在人としての自分はいかにすべきかがはっきりしたのではないでしょうか。

 しかし、日々の重圧に耐えておられる天皇に、この年なんとなくお疲れが見うけられ、心のどこかに不安の影がさっと過ぎります。

    折にふれて
 すすはらひ果ててしづけき夕ぐれに
   あんらの木の実おつる音する
     
あんらとはマンゴーのこと。

 1917年(大正6年)1月、避寒のため葉山御用邸に行啓。

    2月9日のあさ雪ふりけるに
 くもきれて日のさしわたる庭のおもに
   ふりてはきゆる春のあわゆき


    南御用邸にて
 大庭のゆき間につめるつくづくし
   君がみかえりまちてささげむ
    
つくづくしとは土筆(つくし)のこと

    折にふれて
 浜づたひ貝ひろふ手にゆくりなく
    ちりかかりけり春のあわゆき

   この時、天皇と御一緒だったのでは。

    老人
 過ぎし世の事にあかるきおい人の
   のこりすくなくなるがさびしさ


    閑話
 たきもののかをり満ちたる窓のうちは
   かたらひ草の花もさきそふ


    閑居夢
 おきふしのやくらけき身のただならぬ
   ゆめにおどろく夜半もありけり


    渓菊
 みづかれしほそたにがはの岩が根に
   やせても咲ける白菊のはな


 大正7年 

    慈恵会に
 うつくしむさなけのつゆを民草に
   もるるくまなくそそぎてしがな

 
 明治8年軍医高木兼寛は英国留学中に、貧困者に無料で治療する施設の充実している事に感心し、帰国後15年「有志共立東京病院」を設立。皇室は6000円下賜。その後「東京慈恵会病院」と改称、皇后陛下の庇護の下、ますますその業務を拡張するにいったった、とのこと。

   病室にて後よりわが動作に目をとめて見る人の多きに
 ところせき身にしあらずば病む人の
   手あしなでてもいたはらましを


 この年、天皇の身体の不調はだれの目に明らかであった。10月、大正天皇は天長節観兵式を欠席された。

 冬の日、皇后は風に吹かれて落ち葉がたまっていく様子をみて、もはやどうにもならないと感じられていた。しかし、またそんなことばかり思って悩んでいてもしようがあるまい、と時々には思いきることのできる人であった。

     落葉
 こがらしにふきたてられて中空に
   あがる落ち葉のおもしろきかな



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