スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

貞明皇后御歌16

1919年(大正8年)5月7日 裕仁皇太子成人式

    東宮の御誕辰に
 のびたちて千代のいろなるこの君の
   むかしの春をおもひいでつつ


 節子皇后は、わが子とはいえ将来天皇になる長男に対しては常に一歩下がって敬意を表していたようだ。そのためか母性愛の対象としては、腕白坊やの誉れ高い二男雍仁親王(秩父宮)に大いに向けられた。とはいっても決して狎れ合うといった愛情ではなく、爽やかで凛としたものだ。

 ちなみに、秩父宮殿下が陸軍幼年学校に入学されたとき(大正6年4月)の、皇后からのお祝いの手紙をここに写しておこう。

「明日より幼年学校へ御入学と承り一言申入候  申迄もなく御承知と存じ候も凡そ軍人たるべき学生は殊に規律を重んじ 厳かに校則を守り給はん事専一と存じ候 又克く教官の指導に従ひ一層の御奮励ありて 範を垂れ給はん事を切に念じ申候 ここに国家の干城たる第一階に登り給はんとするを祝して銃剣一口を贈り申候 
 古より吾が日本刀は男児の魂と伝へ承り候 諺に花は桜木人は武士と申習はし候 此の桜花爛漫の好時節に御入学相成候事転た感慨の深きを覚え申候 且は桜花と刀剣とまた将た其因縁浅からざるにや存ぜられ候 希くは常に血気の勇にはやり給はず 事に中りて能く精神を鍛錬し 細密なる思慮と寛容なる温情とを養ひ給ひ 仰ぎては
御父天皇陛下及び御兄皇太子殿下の御心にそひ 
伏しては弟宮達の為に好範を示し給ひ臣民衆庶の忠誠を奮起せしむべき御覚悟あらまほしく 神かけて願ひ申候
おもふこころの万分の一にと   かしこ
  四月八日    母より
 淳宮  御もとに   」

 このお手紙の御親筆がどんなに見事なものであるかを想像してみるのは楽しい。


 この年、第4皇子澄宮が着袴(ちゃっこ)の式をあげた。この澄宮(後の三笠宮殿下)は、大正4年の生誕つまり、節子妃が皇后になってから生まれた子である。それゆえ3人の兄たちとは違って、じかに母から教育されることが多く、古来の和歌を口づてに聞かされることが多かったという。

  この年から、

     夏灯
 かぜわたるをすのひまより灯火の
   影のゆらぎてみゆるすずしさ


    百合薫
 高殿のをすふきあぐる山かぜに
   さかりの百合の花の香ぞする


    秋水
 掬ふ手のうすらつめたくおぼゆるは
   水の心も秋になりけむ


 大正九年から

    海上春風
 葉山の海汐のひがたをゆく袖も
   かへさぬほどの春のあさかぜ


    こたび高松宮の海軍に志して江田島なる兵学校に入学給ふにさきだちて伊勢神宮にまうで給はむとするにいささか心におもふ事どもつらねてそのはなむけに参らす
 大神のみまへをろがみ誓ひませ
   おもひたちたることを遂げむと


 しかし、好い時はあっという間に過ぎ去り、苦しい時は長々と続くように感じるもの。

     落葉
 庭もりがいま掃き終へし坪のうちに
   たえまもおかず散る紅葉かな


この2年来、目に見えて天皇の体調は悪化の一途をたどっていた。初めは四肢の神経痛、そして運動失調、この頃は、気力を欠いた姿勢や表情が目立つようになった。1920年(大正9年)3月30日、ついに政府は公の御病状発表をするにいたる。

 この日、原敬は日記にこう書いている、「陛下御践祚以来つねに内外多事にわたらせられ殊に大礼前後は各種の典式等日夜あい連なり次いで大戦の参加となり終始宸襟(しんきん)を労せたまふこと少なからず御心神に幾分か御披露の御模様あらせられ且つ一両年前より御尿中に時々糖分を見ることこれあり昨年以来時々坐骨神経痛を発せられこれがため今春葉山御避寒中は政務をみそなはさるる外はもっぱら玉体の御安養を旨とせられ…」
 
翌1921年(大正10年)11月の宮内省発表「…御脳力の衰退は幼少時の時御悩みあそばされたる御脳病に原因するものと拝察することは、拝診医の意見一致するところなり…」との記事に対して、侍従武官四竈孝輔は反発し、「専ら御静養あらせ給はんとする聖上陛下に対し、何の必要ありてか此の発表を敢えてしたる、余はここに至りて宮相の人格を疑はざるをえざるなり」と日記に書いている。

また、皇太子はすでに久邇宮良子王女と婚約しておられたが、すったもんだ(王女の家系に色盲があることに関して、皇室、華族、政府、右翼を巻き込んだ、いわゆる宮中某重大事件―これでようやく山県公も失脚した)の末、御婚約確定の発表があったのも、また半年間の皇太子御外遊(3月~9月)の後、摂政就任について検討されていたのもこの年であった。

このような時、もっとも重圧がかかってくるのはむろん皇后陛下であった。この年、宮内大臣を拝命した牧野伸顕は日記に書いている。

「十月十一日 内大臣府にて松方侯に会談す。同日内府皇后陛下に拝謁、問題に付委曲言上。陛下にも已に御覚悟の色十分顕はれ。御言葉中に今まで新聞に奥の事が記載されざるは仕合せなりと仰せられたる由、平生御上の事につき如何に御焦慮あそばされ居るか伺ふに足る。但し進行上に付き御意見あり。

第一、 輔導を置くことは御不賛成なり。それは権力が自然輔導たる皇族に加はる事を恐るるの意味に於いて。
第二、 青山御所は不可なり。皇太子はかねて同所を御嫌なり。そのことは度々洩らし相成たるを以て今同所を御住居と定ることは面白からず。
第三、 御上は内閣の伺ひものを御楽しみに思し召すに付、何とか取扱上急にこの種の御仕事の無くならざる工夫はないか。要するに全く御仕事の無くならざる便法はなきか。…
以上大体の思召しを伺ひ得て大いに安心せり。」

国政と病気の天皇と二つながら援けなければならない。節子皇后はすでに覚悟はできていた。

翌年の秋の『牧野伸顕日記』にこうある。

「9月22日。両陛下拝謁。皇后様へ摂政殿下大演習、次いで四国御巡視のため神嘗祭は御代祭を願ふほか致し方なき旨言上したるに、御肯諾あり。且つ殿下には御正坐御できならざるにつき御親祭は事実不可能なり、今後は是非御練習の上正坐に御堪へ相成様致したく、昨年来ことにこの種の御務め事に御怠慢の御様子あり、今後は何とか自発的に御心がけ相成る様致したし、それも御形式になく御心より御務めなさるるよう御自覚なされたく望み居る旨御仰せあり。…」

皇太子の御成婚やいかに。

 「9月23日 皇后様へ拝謁。御結婚に御入用の宝石類の事につき言上、また女官人選につき御思召し伺ひたるに、東宮御内儀の根本義は如何相成るや、従来の純御所風にするか、あるいは霞が関の現状を基として洋風に則るか、それにより女官人選も自ら考慮すべし、自分の時は明治天皇様の御指図にて純日本式に御決定相成りたり、今日は全然旧式にも困難なるべく…」

    大正十年御歌会始

    社頭暁
 つたへきく天の岩屋もしのばれて
   暁きよし伊勢の神がき


 ちなみに同じ時の大正天皇御製。これが大正天皇の白鳥の歌であった。小生はこの御歌を口ずさんでこの詩人の透徹した自意識に感動せずにはおれない。

    社頭暁
 神まつるわが白妙の袖の上に
   かつうすれ行くみあかしのかげ



    にほんブログ村 歴史ブログ 近代 明治・大正・戦前へ
にほんブログ村  
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。