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『細雪』

この長編小説を読みながら思った。このような二家族、四姉妹の日常の生活風景、これといって大きな事件も起こらない、淡々とした日常的記述が、どうしてこうも面白く読めるのだろう、と。

 いや、大事件が起こらない訳ではない。姉妹の一人が大洪水にあって非常に危ない目に遭うし、このとき助けてくれた柄のあまりよくないカメラマンとが、耳の手術時の感染をから下肢に炎症を起こして苦悶のうちに死ぬ。また、一番末の、いわゆる跳んでる妹は、赤痢で死に瀕したりもする。が、それがまったく日常用語で淡々と書かれていて、読者もその〈話の中〉に参加している感じである。

 根っからの悪人も出てこない。しいていえば、末妹が、どうも男を利用して生活費を得ていた節がある。それを姉たちが感じて、ぞっとするが、「ねえ、こいやん、あんたなんか隠しとるのやない」ときく。それで充分なのである。

 谷崎の他の明確に意図されたようなエロス的観念作品とはどうも違う。他の作家にこのような小説があるだろうか。しかし谷崎は、もちろんこの大長編小説をも、充分計画を立ててから書いたに違いない。そうするとやっぱり凄いんやない。

 これは、昭和11年から16年の物語、戦争の足音がする時から戦争さなかであるけれど、背景というものを意識する必要がないほど、時代を生きている。その時代の風俗、感性、文化を生きている。富豪であったらしい父母の時代から零落してきているとはいっても、まだ余裕があるといえる四姉妹とその周囲の人たちが、婚期をとうに過ぎた下から二人目の妹の縁談話と、その間隙を縫って末妹のアヴァンチュール話が鏡のように対照的に映し出され、彼らの心の中で絡み合う。

 なぜこれが、面白いと感じるのか。別に文章が面白く工夫されているというわけではない。が、その時その時の状況での登場人物の気持ちに共感してしまうからで、それが大阪弁で語られているのが、この場合非常によく効いていて、それこそが重要な要素なのだと思う。

 この地方性と、当時の日常性、とは言っても、それは、美と切り離せないーたとえば、着物の色柄、食べ物、琴・三味線・仕舞などの芸事、花見―そして四姉妹の個性の典型が、普遍性を獲得している。

 緊迫しているはずの歴史の流れの中にありながら、非歴史的と言えるほど平凡な日常性に終始しているこの物語は非凡である。そもそも、この小説はこんなふうに始まっている。

 「こいさん、頼むわ。―」鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけてゐた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映ってゐる長襦袢(じゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のやうに見据ゑながら、「雪子ちゃん下で何してる」と、幸子はきいた。

『源氏物語』という作品が平安時代の宮中文化の粋であるとするならば、『細雪』という作品は戦前の日本文化の粋である。そして、読者であるわれわれの中にもまだその流れが枯渇していない間は、共感をもって読まれ続けるであろうと思った。


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