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貞明皇后御歌18

1923年(大正12年)御歌から

     箒
 あさまだき掃きて清むる手ははぎの
   音はねみみによきものにして


     残鶯
 世はなれし山のみ寺をとひくれば
   のこる桜に鶯のなく


     峠松
 旅人をおくりむかへてひとつ松
   山の峠に幾世へぬらむ


     夏夜
 閨のうちの夜の暑さぞたへがたき
   昼はなかなか風も入りしを


 思えば、少し前までクーラーも扇風機すらなかったのだ・・・。そんな時代を想像するだけで、もはや小生苦しくなる。

     櫛
 黒髪もみづきはたちて見ゆるかな
   少女かざせる玉の御櫛に


小生としては玉鬘を盗み見たときの心の高鳴りが何時までも消えず、なかなか思い切れない源氏の悩ましい気持ちが解らんでもない。

     故郷虫
 ふるさとのまがきの萩をみむと来て
   かはらぬ虫のこゑをきくかな


     畑茄子
 畑もりのをぢのほほ笑みさもこそと
   おもはるるまで茄子のみのれる


 幼少時育ったあの農家を久しぶりに訪れた途端、あの時の一切が蘇ってきたのではないだろうか。

 ところが、この年、日本人なら誰もが知る関東大震災が起こる。9月1日正午前。ちょうどこの時両陛下は日光の田母沢御用邸に滞在しておられた。例年なら葉山に御滞在であるところ、天皇の体調を慮り、日光に御避暑とのことであったらしい。

 『貞明皇后』(主婦の友社)によると、御用邸も烈しい振動に見舞われ、棟柱のきしる音、物の落ちる音、砕ける音が相ついだ。平素、つつしみ深い側近の人たちも、大きな悲鳴をあげて、立ち騒ぐばかりであった。
 しかし、そのとき皇后、少しも騒がず、むしろ騒ぐ人々をお制しになって、まず、不自由な天皇のお手を引いて一歩一歩庭先の広い芝生に導かれた。そして、いそいで東京に電話をし、こちらは無事であること、また東京の様子を伺うように、侍従にお命じになった。
 ところが、時すでに遅し、電話は不通状態となっていた。ただちに、伝書鳩を飛ばすようお命じになった。今の時代なら携帯で即様子が見れるが、当時は、ましてや鉄道も不通となっては、その詳細が判るまで何日もかかった。じつはその日、東京市内では150余か所から火が上がり、7割が灰燼に帰しつつあり、90000人以上の死者が出ていた。

 そのときちょうど、大命を拝した第二次山本内閣は組閣難に陥っていた。ようやく大急ぎで組閣したものの、電燈も点かぬ蝋燭の灯りのもとで行われた故、地震内閣と揶揄されたという。それにしても、この前の東北大震災も、折から経験不足の内閣のとき起こった、重なる時は重なるものだ。

 一週間ほど経って判ってきたおおよその事に皇后は心をお痛めになった。しかし、心痛にひたっている暇はなかった。東京のみではなく、国民全体の不安を解消すべく、天皇に一日も早く宮城に御戻りいただかねくてはならないと考えるいっぽう、しかし御病状は一進一退、まだ暑いさなか東京御帰還はいかなるものか、だがまた、この危急時に天皇がいつまでも日光にどどまっておられるのはよくないことだ。結局、一刻も早く東京に御戻りしていただくことを決断された。

 9月29日、節子皇后は地獄のごとき被災地に足をお運びになった。じっさい皇后は上野駅から、そのまままっすぐに上野公園自治館内の被災者収容所へ。〈見るも悲し、いかにかすべきわが心〉というお気持ちであられたであろう。宮内省巡回病院、三井慈善病院をお見舞い、そのあくる日も諸病院へお見舞い、そして何万と横死者の冥福を祈り、かろうじて避難しえた人々のテントを廻り、慰めや励ましのお言葉をかけられた。

 燃ゆる火を避けんとしては水の中に
   おぼれし人のいとほしきかな


 生きものに賑はひし春もありけるを
   かばねつみたる庭となりたる


    震災のあとのことども見も聞きもして
 きくにだに胸つぶるるをまのあたり
   見し人心いかにかありけむ


      寒夜霰
 さらぬだに秩父ねおろし寒き夜を
   あれし都に霰ふるなり


 震災から12月半ばまで、被災者の気持ちを思い温かい服を着ることはできないと、女官らの勧めを断って、外出時は夏服をお通しになった、という。

 11月23日、摂政宮(皇太子)は天皇に代わって初めて新嘗祭を行われた。その時の母皇后の御歌、

    御深夜しに数よみしける歌の中に冬暁
 ねやの戸のひまもる風のつめたさに
   あかつきおきのたへがたきころ


 この年も終わりという、12月27日、特別議会の開院式に向かう摂政宮の行列に、一発の銃声が響いた。いわゆる虎の門事件である。犯人の難波大助は「革命万歳!」を叫んで車を追ったところを捕らえられた。彼は富豪の家に育ったが、共産主義アナーキストたちに心酔し、大杉事件・亀戸事件など共産主義運動家への官憲の非道な弾圧に憤激していた。

 せっかく繊細な心をもっていながらも、いや繊細であればあるほど、イデオロギーは人の心を理解しないということが往々にして解らなくなるものだ。

 避難者の身に水をそそぎて辛くして火を免れしめし警官の却りておのが身の焼かれて命失ひけるよしをききて
 まごころのあつきがままにもゆる火の
   力づよさもおぼえざりけむ


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umama01さん、この前の大震災の〈あの時の気持ち〉は、もはやうんと努力しないと思い起こせないですね。あの異様な、巨大な力の前での無力感。
ぐっとくる歌はそれが少し遠のいてから生まれるもので、またあまりに遠くなるとよそよそしくなるような気がします。

No title

 単純明快に分かりやすく表現している分、震災直後の句が胸に来ます。

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