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『椿の局の記』

山口幸洋氏の『椿の局の記』は、大正天皇・皇后のもっともお側近くに仕えていた女官の思い出話で、天皇皇后の日常を臨場感あふれる言葉遣いでかかれている。

 大正天皇は漢文の素読に長けていて、漢詩をつるのも非常に速いのを目の当たりにして、この椿の局が驚いたことを以前に紹介したけれど、ほかにも面白いエピソードがある。

 この椿の局の父が鎌倉に住んでいた頃の話。葉山(御用邸)へお供した時、大正天皇は局の父が鎌倉に居ることをよくお知りになっていて、あたくしに「ここからならおでーさん(父)とこ近いだろ、おでーさんた所へ行ってきたか」と仰せんなる。「はい、まああの近いでございますけれど、まだよう参りませんでございます」ったら、「こういう近いとこ来た時、皇后さまにお願いしていくといいよ」って仰せんなる。そういう所までお気つけて頂いてね「ありがとうございます」言うと、またしばらくすっと、「行ったか」っと仰せんなるです。で、「まだよう参りません」って。今度は「どうして行かないのか」って仰せん、「こんなに近いところまで来て、どうして行かんのか」って仰せんなってね、その内に父が拝謁に上がったもんで良かったんですが、また何べんもおたずね頂くんですよ、…」

 このよく気が付いて、しつこいところが、じつに大正天皇らしく、小生思わず笑みがこぼれてくる。

 また大正天皇はとてもおちゃめだった。夕ご飯前にちょっと時間があって、侍従や女官たちが、廊下で御膳が出てくるのを待っているあいだ、大正さんが、「おお、まぶしいぞ、ライトを消せ」と仰る。それは、侍従の何とかさんと、お医者の何とかさんの頭が禿げて光っていることを言った、とか。

 また、天皇は犬が大変お好きで、沢山の大型犬を飼っておられた。それをいっぺんにぱっと放す。女官たちは、きゃあきゃあ言って逃げまとう。それをとても面白がられた。

 お上は、甘いものはあまり召しあがらない、ただ葛だけは召しあがる。そのようなお菓子をみんなに下賜くださるのがお楽しみでした。…あたしはもう、たんと頂くもんで逃げると、手えつかんで下さるもんで逃げて行くわけにもいかなんだ。あんまり下さると、皇后さまが「お目目近目」だもんで、こんな目えして御覧遊ばされるから「お上、もうそれで結構でございます」って言って逃げて行くようにする。(お上は)逃げて行かんようにギャーッと手をつかんでならしゃる。ごちそうでも山のように下さるんですよ。

 御膳召しのおりお給仕の時は、なるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、お皿持ってこいって言って下さるんです。(お持ちすると)持っている手をがっとおつかみになって、御自分さんのそばから逃げて行かんように押さえて、つかんでならしゃるです。…そうしてお皿いっぱいもうこぼれます言うくらい積んでいただくわけ。そうすると皇后さまがきゅっとごらん遊ばしてんのが、…こう変なお目目でごらん遊ばされるんですね。一時はちょっと御機嫌が悪うてちょっとあのヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。

 お上に、あまりに馴れ馴れしくされたときは、皇后さまはとても恐かったみたいだが、それ以外の時は、とても優しくしていただいた。「あんなに今恐ろしいことをおっしゃってならしゃたおみ口で、又こんなにかばって頂いてもったいないと思って、申し訳なかったんと思うと、もう涙が出て、お傍に出られなくなるんです。」

 牧野伸顕をはじめ、周囲の人たちを感嘆させるほどの聡明な方であられた節子皇后も、女性であることには変わりはない。

       観蓮(大正12年)
 なやましき夜半をすぐして池水の
   すめるこころに蓮の花見る

 お上が椿の局にあまりに馴れ馴れしくするので、皇后に遠慮して、権典侍(お側仕え、明治以前なら側室のこと)から命婦(奥の事務方のような仕事)に移してもらうようにしていただいたそうだ。

 大正天皇はとても心やさしい人で、昭憲皇太后(明治天皇の妻、大正帝の実の母ではない)をとても大事にしていた。「階段の、お自分さんのミヨ(足)がお悪いのに、御自分さん後ろ向きにお階段のおしたへお下り遊ばして、お手手こうお持ち遊ばしてね、…「お危のうございますよ・・・」って仰せんなって、おいたわり遊ばすんですよ。そうするとあの昭憲皇后さま、お涙ためて「恐れいります」いわしゃって、うんとにお美しいですね、・・・。

 ふつう天皇はたとえ母に対してでも、そのようにしないが、大正天皇は、そのような習慣に縛られることはなかった。

また、大正天皇は仕事にはとてもご熱心で、たとえお食事中でも、仕事上の(政治の)面会などがあれば、自らすぐ執務室に足を運ばれた。相手を待たせるか、来させるかすればいいものを、…と椿の局は不思議に思った、と。

また、新嘗祭や月初めの御神事を行われるさいの、じつに繊細きわまりない清めの準備があるのには驚かされる。このような不眠不休の作業が常に行われていることをわれわれは知らない。

 「おやすみの日はあらしゃいませんよ。日曜なんて私らのとこの国ではないんです。…だからみんな大祭やいうて遊びに行ったり、長長なって(寝て)らっしゃると、もったいない、お上はお休み遊ばされない、御寝も遊ばされんで御自分が神様の御用遊ばして、国民のために遊ばされるのに、人民は粗末な気持ちで居るって、あたくしがいつも怒るんです。」

 大正天皇は葉山の御用邸で、1926年(大正15年)12月25日に、お亡くなりになった。その年の8月10日、天皇は皇居から車で原宿宮廷駅に運ばれた。その時の様子。

 「だいぶお悪いというので葉山へおともする(お連れする)ことは、よくわかって頂いたんですが、お自動車へね召さすとき、「いや」っと仰せんなった。お自動車が分からんようにお庭の方へ自動車廻して、お庭玄関からずっとお入れしたの。おいたわしい、そんな拝見して、そんなにまでもお連れ申さんかてええのにって、あたくしとか宮内大臣、それこそ食ってかかるっちゅうか、けんかずくでね申しあげたことあります。何かきっとどっかで相談あったんでしょうと思いますね。

 自動車へは(お上を)そのごと(そなまま)じゅうっとお入れしたんですもんで、(立った格好で)おズボンを見えさすのに、こういう風にお抱えして、ほいでおミヤ(足)へおズボンこうしてあげたですもんでね。途中でまたおチョーズ(小便)がおいでんなりたいといかんからって、お袋あげてね、だから地獄の責苦ですわ。もったいなくってね、なぜそういうこをしてお連れましなきょならんのか、皇后様、良いっていうこと仰せんならなかったです。侍従さんもみんな反対、入江さん(侍従)はじいのかみ(おじいいさん)でしたが、(その反対に対する)御返答伺ってないまま、お連れまししたんだって仰ってました。…」

 「葉山の御用邸は澄宮様(三笠宮)のおややさん(赤ちゃん)の時に御別邸ならいしゃったとき出来た御別邸ですもんでね、お詰めするのにも人の寝るとこも、坐るとこもないくらい、御殿としちゃあ狭いとこです。…あたしたちも注射さしあげられるようにちゃんとしました。お側にお注射器を揃えて、消毒してお戸棚置いてみんな入れて用意してはりましたでね。…皇后様は、崩御んなるまでお召(着物)をお解き遊ばす間もなしで、お側離れずずっとおつき遊ばしてました。…でも御寿命ですからね、お若いときからおつとめ一途に、ただもう御無理ばっかし遊ばされて御体力がお弱りんなったのがご病気の始まりだったし、秩父宮様が「人事をつくした」って仰せになった通りでしたと思います。・・・


    

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

おお!

へるぶらうさん、ありがとう。できるだけ世相を見ないふりをして、ぼちぼちやっています。
大正天皇と「大正デモクラシイ」は、まあ偶然の一致といいますか、表面上の類似だと思います。大正天皇は根っからのultra‐democratではないでしょうか。

お久〜

ご無沙汰しておりますが、
こちらのお変わりのないブログには
なにやらほっとしております、

大正デモクラシーと言われたことの一端は
この大正天皇のお人柄にもあったんではないかと
思われてきますのですが、

うたのすけ殿はどうお考えでしょうか。。。




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