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丸山古墳

たしか去年の夏ごろ、テレビで「NHKスペシャル 知られざる大英博物館」というのをやっていた。明治時代に英国からやってきたガウランドという人の古墳調査と彼が集めたコレクションの話で、内容は詳しくは思いだせないが、当時まだ日本人自身が古墳研究にさほど関心がなかったのであったが、ガウランドは写真を撮ったり、厳密な計測をしたりして、本格的な研究をしたのだった。

 そして、最近この人の残した研究資料をたどって、日本の研究チームが古墳群を詳しく再調査しはじめ、その成果から古墳時代はいかなるものかを明らかにし始めた。そのテレビ番組の内容が本として出版され、知人が貸してくれたので読んだ。面白かったのでこれを書きたい。

 それにしても、大英博物館というのは、世界中の古い物がいっぱい地下の収蔵庫に眠っていて、それらの多くはまだ未調査だというから驚きである。つまりこれから新しい発見がなされうる宝の山である。さすがかつては日の沈まぬ大英帝国だったんだな。ガウランドが英国にもちかえった日本の古墳時代の物は1000点以上におよぶらしい。おかげでこれらからさらに解ることがあるだろうし、いずれわれわれの目に触れる機会もあるだろう。

 ガウランドのおかげである!それにつけて思うのは、つい最近、長崎や津島のお寺から仏像が盗まれ、韓国政府は、犯人の韓国人を擁護して、これはもともと韓国の物だから返さぬと言っているとか。われわれ日本人には理解できない発想だ。日本人のお陰で、あの仏像は美術品としてまた信仰の対象として大切に守られ続けてきたのであって、もし韓国にあったままなら、毀されて捨てられていたに違いない。日本に対して「ありがとう」というべきである、というのは外交感覚がちょっと変な日本人的発想か。

 ロゼッタストーンも、英国人が持ち帰り、トーマスヤングやシャンポリオンの研究のお陰で、解明され、エジプトの歴史が解明されたのであり、大英博物館に大切に保存され、かつ世界中の誰の目にも触れられるようにしてあるのは、結構なことであって、その発見当時はまだ存在さえしなかったエジプト政府がそれを返せと言うのも、ちょっと首をかしげてしまう。

 それはさておき、ガウランドという人は、明治政府が貨幣鋳造のために雇った技師の一人で、明治8年(1875年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師という身分で3年の契約で来日した。が、じっさい日本に滞在すること16年に及んだのは、古墳調査に捉えられてしまったからだ。彼が調査した古墳は400ヶ所を超えるという。

 彼が集めたものは古墳からの出土物、陶棺、須恵器、鏡、馬具、埴輪などであるが、何よりも貴重なのは、彼が撮った写真や非常に正確な測量図や調査メモであって、そのおかげで、古墳のどの位置に何がどのように置かれていたかがわかる。その中でも、彼がとくに詳しく調査したのは、奈良県橿原市の丸山古墳であった。

全長310メートルの前方後円墳で、日本で6番目の大きさである。どうも6世紀後半に造られたもので、つまりいわゆる古墳時代の終わり、前方後円墳としては最後のもので、宮内庁によると〈天皇や皇族の墓の可能性がある陵墓参考地〉となっているらしい。

一般に前方後円墳のばあい、後円部の中心の位置に墓室があって、そこに棺が置かれているが、当時墓室に入り測量できたガウランドの精密な図面によると、この丸山古墳では、どうも墓室は墳丘の中心からだいぶんずれているのだ。なぜか? これが大いに疑問だった。しかし、もう墳丘の入口は判らないし、宮内庁が柵で囲み立ち入り禁止になっている。

 ところがここに大事件が起こった。ときは平成3年(1991年)、雨などにより、墳丘の一角に穴が開いた。その穴に入って遊んでいた少年が石室まで入ってしまい、そこの情況を親に報告した。親もさっそく石室に入り写真を撮った。翌朝の新聞に、一般人が天皇のかもしれない墓の写真を初めて撮ったとの衝撃的な記事が載った。入口は宮内庁の柵より外側だった。この事件によって、宮内庁をはじめ専門家による丸山古墳の調査が始まった。

3Dカメラなど最新機器を駆使して判ったことは、ガウランドの測量の正しかったこと、つまりこの古墳は従来の伝統とはかけ離れた墓室の位置だった。しかも石室は、28.4m×4.1m、日本で最大の石室であって、中に石棺が二つ、石棺の形から推定するに、すこし時代も違っているらしい。そうすると、これは欽明天皇(在位539~571)と堅塩媛(きたしひめ)の墓と考えた方が、時代的にも、大きさからいっても、また『書紀』の記述とも合って、いま宮内庁が欽明天皇陵としている檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ)は間違いではないか、と考える学者が増えたらしい。もっとも、それ以外の『書紀』の記述からは、やはり檜隈坂合陵が合っている。

とにかく、巨大前方後円墳がこの丸山古墳でもって終わりになったのはなぜか。それは、石室の位置が墳丘中心部とずれていることに関係する。

以前は墳丘の中心から竪穴を掘って(垂直に掘って)、そこに石棺を納め土をかぶせていたそうだ。しかし、この竪穴式からだんだんと横から堀り進めて、中心部に石室を造りそこに石棺を置くという横穴式が、中国から朝鮮を経て日本に入り、6世紀にはいり日本でも横穴式が爆発的に流行してきた。中国や朝鮮は塼(せん)というレンガで石室を造った。ところが、日本は独特で、自然石を重ねて造った。しかし、だんだんと石室を大きくすると同時に、利用する石も大きいものとなっていった。するとどうしても、横穴から大きい石を入れるのが困難になってくる。

丸山古墳のごとき大きな古墳では、もはや中心部に巨大な石を運ぶことができなかった。つまり、グローバルスタンダードとなった横穴式と日本独自の巨大石の室とを一致させる限界を遥かに超えてしまい、ガウランドやその後の調査の通り、かなりのずれが生じたのだった。この時以後、日本人はどちらかを捨てる二者択一を迫られたという。結局この新旧の対立の結果、350年に及ぶ日本独自の一つである巨大前方後円墳が捨てられた。そして行き着くところは、…蘇我馬子の墓が思い浮かぶ。

このころ、日本に仏教が入ってきて、大きな時代のうねりがあり、中国には隋という統一国家が生じ、これまた仏教と律令制度とを強力に推し進め、日本はその余波をまともに受け、遣隋使へと連なってゆく。このことと墓の在り方と関係があるのだろうか。

それにしても、東アジアで竪穴式から横穴式に変わっていったのはなぜだろう。つまり、石棺を入れるだけの狭苦しい墓室を日常の部屋のように広くしようとしたのはなぜだろう。ちょうどエジプトの王たちの墓のように、広い部屋に副葬品を置いたりしたのは? そこで生死感、死後の世界観の変化が起こったのだろうか?

そうしてまた、巨大な石を組み合わせるという日本独自の技術とから、そのずっと後に発揮される城の見事な石組を、小生は連想してしまうが、どうであろうか。先日、再建された本丸御殿の一部公開を見に行った名古屋城、あの石垣の石の組み合わせ、石接の見事さには感心した。


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コメント

No title

umama01さん、この石の所有ということに関していろいろ考えると、ますます歴史が興味深く感じられますね。
強奪と考えれば、所有権を主張できるのは、オスマン帝国ではないでしょうか。
しかしこの石が切り出され刻まれたのが、紀元前200年のアレキサンドリア付近であったことを重要視すると、ギリシャとエジプトも口を出したくなるでしょうね。
しかし、まあ大英博物館は、いちおうタダで見せているというだから、いいのじゃないの。

No title

大英博物館のアレは……事実強奪しているので、評価が難しいところです。
勿論、保存に対しては彼らの功績が大きかったのは間違いありませんが。
個人的には所有権をエジプト政府に移しつつ、利用料として幾ばくかのレンタル料を収めると同時に、エジプト政府が大英博物館に保存料を支払う。(両者を同額とする)
というのが双方の落としどころな気もするのですが。

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