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貞明皇后御歌30

御所の炎上後、大宮さま(貞明皇后)は御文庫と称する四畳半くらいのじめじめした防空壕で、三か月ほどお過ごしになった。もちろん、そこには大正天皇の御影さまが懸けられており、朝夕の礼拝を怠られなかった。『貞明皇后』(主婦の友社)によると、御所炎上の報を聞いて駆けつけた高松宮妃に、大宮さまは、防空壕の中に泰然自若として、「これで国民といっしょになった」と、さぞ御満足のように仰せられた。高松宮妃は、その一言に、御慰めする言葉を失われて、深く感動された、とある。

さもあらん。このじつにさばさばとしたところが貞明皇后の圧倒的な魅力である。家具や調度品や文書もあったであろう、持ち出さずに焼失したものは多かったであろう。しかし未練を口にする女官たちをよそに、大宮さまはいっさいの未練がましいことを口にすることはなかったという。

 1945年(昭和20年)8月20日 大宮さま(貞明皇后)は軽井沢へ御疎開になった。とはいえ、もう戦争は終わり、疎開の意味もなくなったのであるが、以前から計画されており、また折も折、大宮さまにしばらく東京を離れてくつろいでいただきたいとの両陛下の切望に従うしかなかった。

 軽井沢の地で、ふと見かけた珍しい植物〈かたしろ草〉を、東京で大変な思いをされている天皇にお贈りした。天皇は大変のよろこびになって、吹上御苑の一隅にお植えになり、詠まれた御製。

 いでましし浅間の山のふもとより
   母のたまひしこの草木はも


 池のへのかたしろぐさを見るごとに
   母の心の思ひいでらる


 大宮さまは12月に軽井沢から沼津御用邸へ移られた。そのほとんどは空襲で破壊されていたが、幼少時に田舎にお育ちになった貞明皇后は、ほんとうに田舎の生活がお好きで、勤労奉仕に来た女学生や土地の人たちと一緒に、モンペ姿でときには大はしゃぎして畑仕事に精を出された。大宮さまのあまりの気さくで明るい人柄にみな感心した。後年に至ってますます形式に拘泥せず、純朴を愛され、まごころ、童心をご発揮になり、話し相手が、ぞんざいな言葉遣いをしても、まったく意に介するところがお有りにならなかった。

    春水 紀元節
 わらはらや引き落としけむいささ川
   田芹うかべて流れゆくみゆ
       
      わらはらや=子供たちであろうか

    丘若菜
 いそいそとわか菜つむべくのぼるかな
   丘の木の間に富士を見ながら


    翁
 数を多みう孫の名すらおぼえずと
   かたる翁の幸をこそおもへ


 ここで獲れたサツマイモは、先ず御影さまにお供えし、両陛下をはじめ御親族の人たちにお領けになった。そして、一年後に東京に帰られても、このサツマイモを御所内の畑で育てられたそうである。大宮さま崩御の後の昭和天皇御製。

    母宮を思ふ
 母宮のめでてみましし薯(いも)畑
   ことしの夏はいかにかあるらむ


 あつき日にこもりてふとも母宮の
   そのの畑をおもひうかべつ


 昭和21年の暮、焼跡に再建された大宮御所に戻られた。

     春月寒
 照る月の光もしろし風さえて
   かすむともなき春の夜空に


     神苑橋 明治節
 ねぎごとは母にまかせてうなゐらの
   わたりてあそぶ神ぞののはし

      うなゐ=幼い子供

 「これでいいのです」と呟いておられる様子が目に浮かぶ。

 この年(昭和22年)10月のことである。筧素彦氏によると、ふと食堂でラジオが鳴っている、誰が聴いているのだろうと覗くと、なんと大宮さま。「まあいいから一緒に聴いておいで」と仰ったので、耳を傾けると、それは漫才だった。と次にニュースが流れた。それは、直宮以外の宮様方が臣籍降下なさるというものだった。筧氏がはっと息をのんで大宮さまのお顔を伺うと、平然として聴いておられる。
 筧氏が「まことに恐れ入ったことで…」と申し上げると、大宮さまが仰るには、眉ひとつお動かしにならず「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました」。このあまりにもあっさりとしたお言葉に筧氏はたいそう驚いたそうである。

 じつは昨年(昭和21年5月)に、加藤次官が大宮さまに、GHQの圧力による皇室問題に関して、宮様方の臣籍降下問題を、お訊ねになったのだった。その時、大宮さまは、「宮様方が納得するまでゆっくり時間をかけてください。自分は御一新のこと、何も心配要りません」とお答えになったそうだ。

 おそらく大宮さまは、皇室が永続するその本質的理由は、質素、まごころ、率直、そういう心持にあるのであって、明治以来、対外的には必要だったかもしれないが、あまりにも物質的に豊かでありすぎたのは間違っていたのでは、と考えておられた。他国の王や皇帝ではない、天皇である。天津日継である。

 この度の東北の被災地への両陛下の御慰問の映像を拝見して思った、もし貞明皇后があれを見られたとしたら、これでよしと首肯されたであろう。あの被災者たちと同じ床に膝をおつきになって、被災者の言葉に耳を傾けられ、心底からお言葉をお掛けになっている姿こそ、わが皇室の本質である、と。

     昭和23年 巌上松
 根を幹を何によりてかやしなへる
   しみ栄えたる岩のうへ松

      しみ=繁く

     昭和26年 朝空 御会始
 このねぬる朝けのそらに光あり
   のぼる日かげはまだみえねども


 この年の五月、大宮さまは狭心症の発作にて崩御。六月八日「貞明皇后」の追号を贈られる。


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