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17条憲法1

小生は生まれて初めて聖徳太子の作った憲法17条を読んだ。誰でも知っている「和をもって貴しとなす」から始まる短い憲法だけれど、研究者たちによると、そのほとんどの言い回しが、四書五経、その他の漢籍・仏典などから採られているらしい。

 そういうことを調べた研究者たちの博識および情熱に頭が下がるが、600年当時はすでに日本の知識人たちは、輸入されたすべての文献を完全に薬籠中の物としていた証拠でもある。

 第一条のところは、「一に曰く和らぐを以て貴しとし、逆ふることを無きを宗とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)る者少なし。ここを以て、或いは君父に順(したが)はず。また隣里に違ふ。然れども、上和らぎ下睦びて、事を論ふにかなふときは、事理(こと)自づからに通ふ。何事か成らさらむ。」

 福永光司先生によると、この第一条だけで、『礼記』『荘子』『左伝』『論語』『孝経』『論衡』『韓非子』から引用され、特に『荘子』からは二度の引用があり、『荘子』の思想の影響がつよいという。(梅原猛)

 これを聞いただけで、小生はもう勉強の意欲をなくしてしまう。しかし、『日本書紀』が書かれたのが、太子が憲法を作ってから100年くらい後なのだし、(とは言っても、おそらく太子が書いたものはそのまま残っていた可能性があるが)、そもそも太子は、外国語の言葉を引用したとしても、原典の文脈そのままで引用したとは限らないのではないか、とまあ、言い訳をつくっておいてから、自分なりにいろいろ考えようとしたのだけれど、これなかなか難しそうだ。

 それで、まあ搦め手から迫ってみよう。聖徳太子がこの憲法を発表する5か月前、前年の12月に冠位十二階を考案した。徳・仁・礼・信・義・智のそれぞれ大・小でもって十二、よく判るように色付け
した布を着けさせた。そして明くる年の正月一日に施行、諸臣たちの冠に着けさせた。

 こんな大胆な政治改革を断行した勇気たるやすごい。いままで、いい加減に仕事していた官僚たちの反発も烈しいものであったろう。よくやった、えらい、と拍手を送りたくなるな。そして三か月後、17条憲法発布である。ということは、憲法発布は、冠位十二階の理論的根拠を示すものであり、その徹底した理論は、そこいらの官僚や豪族の有無を言わせぬものであったろう。

 その翌年、太子は斑鳩宮(いかるが=法隆寺辺り)に移り、そこで『勝鬘経』そして『法華経』の研究に没頭すると同時に、小野妹子らを隋に送る。607年第一回遣隋使派遣とたぶん学校で習ったのではなかろうか。しかし、実際は600年にすでに遣隋使を送っているんだが、どうしてそうなっているのか、その問題は今は置いておこう。

 ともあれ、冠位十二階施行という現実の政治断行と仏典(この世を相対化してしまう法)の研究との間に、17条憲法発布があることに注意しよう。

 
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

umama01さん、権力闘争、嘘八百、それが政治の世界というものでしょう。政治家はそれに耐えねばなりません。和をもって貴しとなすのは、しっかりした話し合いが前提だと思うのですが、それがなかなか難しいみたいですね。

No title

 こんな憲法が成立したのを考えるだけで、豪族同士の派閥があり、上限関係が官位ではなく派閥としての力のみ、という状況が伺えます。
 ……利権争いと言うより権威争いがリアルファイトに昇格し続けていたことも。
 だからこその「和をもって貴し」なのでしょうねぇ。
 そして、中央集権としての命令系統を一本化するために、派閥を無視し、朝廷内での上限関係を色により分かりやすくした、のでしょう。

 今でも外務省なんかは中国派とか色々な派閥があるとか聞きますが……いい加減、1400年も前に改革されたことくらい解消し、国益という一本で意思統一をして欲しいものです、はい。

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