スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『嘔吐』

 ずっと昔読んだ本で、その後ほとんど忘れているのだが、しかしこころのどこかに残っていて、つまり何か気になっていて、ときどきふっと思い出しては、死ぬまでにもう一度読んでみたいと思う本がいくつかある。サルトルの『嘔吐』もそのひとつであって、ふとしたタイミングで、この本を読み返すことができた。

 やっぱり同じだ。昔読んだ時と少しも変わらない。掴みどころがない。しかし独特の不思議な印象を残す作品だ。しかし、このまま放っておくのも気持ちが悪い。ここでなんとかケリをつけてしまわなかったら、また気になっていつか読み返したいと思ってしまいそうだ。が、それは御免こうむりたい。

 どう言えばいいんだろう。とても詩的で、とても反逆的で、シニックで、ニヒリスティックで、ペシミスティックで、ときに鋭い独りよがりの独白。要するにめちゃくちゃだ。せいぜいよく言って、『地下室の手記』の二十世紀的亜流だ。だから、とても要約する気になれないし、どこといって引用する気にもなれないし、さらには批判する気にもならない。

 しかし…やはり、だからと言って、ここで放りっぱなしにはしたくない…この手記を残した半狂気の…存在恐怖症とでもいうべきロカンタンが、この二十一世紀に亡霊のよう現れる・・・

 そもそも、文字を書くということは恥をかくということであったはずだが、この今の時代、誰もかれもが、文字を書いてはそれを即座に他人に見せる、それも複数の他人の目にさらす、こんな芸当ができるのは、デジタル機器のおかげである。

 そのために、だれも文字で語ることにたいして羞恥を感じなくなっている。昔は女性が膝を見せたり、男性がそれを見ることに羞恥を感じたが、われわれはすっかり鈍感になって、よほどの露出に出くわさなければ心を動かさない。

 他人の目に書いたものをさらすことの恥ずかしさを失った者の心情やら煽情的報告やらたわいない論争、ちょっとした思いつきのごみ捨て場。中には、大舞台で見えを切っている気分でいる者を見るにつけ笑止千万を通り越して悲しい。

 「彼らはみなお人よしだ、なぜというに自分に満足しきっているからさ。」19世紀の小説家はそう書いた。ほんとうは、いやほんとうはなどという言葉は慎もう。われわれはとても弱いものだ。

いつも思う。あの大震災で、家々が流され、一つの村があっという間に大波に呑まれた、あの映像を見た時の、われわれの無力感。私は〈あの感覚〉に固執する。人はすぐ忘れる。「あの時の対応を反省しよう」とか「がんばろう東北」などというスローガンが、貴重な〈あの感覚〉を台無しにしてしまう。人は忘れるのではない。忘れたいのだ。

あらゆる反省、あらゆるスローガンは、一生懸命前を向いて走っている。前を向いて走っているつもりだ。なんのことはない、去年と同じ場所で同じことを言っているにすぎない。去年と、10年前と、100年前と同じことを。

相も変わらず人間の諸権利などという。中でも比較的新しい知る権利というのがもっとも滑稽だ。会社の部長がどこの大学出だとか、隣の娘が出戻りだとか、あるいは、政府の密約とか・・・。知る? すべて同じことだ。私は何も知りたくはない。

何だって? 政治はわれわれの生活に影響を与えるから、政府の密約は知らなくてはならないって。よろしい、それを言うなら、エネルギーや食のほとんどを輸入しているわが同胞。世界中の密約を知らなければならない。「グッド・ラック」

いっぽうで知る権利を言っておきながら、個人情報保護を言う。これを判り易く言えば、人は自分の知りたいことは知りたい、知られたくないことは知られたくない、ということだ。複数の人間がそう念じながら戦っているこの風景。おお神よ、憐れみたまえ。

そうして人は歳をかさねる。思い出がだんだんと多くなる。人は思い出す、昨日会ったあの女はいいお尻をしていたなぁ、あの湖畔で彼に抱かれたのはちょうど一年前のことだったわ。あの時はよく頑張って山登りをしたものだ。しかし、若い人が思い出づくりをしなきゃ、というのを聞いてびっくする。人生に先回りができると思っているのか。

それなら、思い出づくりをしようと考えていることも、思い出してしまうではないか。そりゃ台無しにならないか。そうではないらしい。うまいこと、いいとこ採りで思い出せるのだ。ということは、記憶は取捨選択をして創られるということだ。じつにそのようで、思い出とはつねに現在における創作である。人はつねに現在を生きる、創作をしながら。言葉を換えれば、夢を見ながら。それが上手いか下手か。

歩いている人を見て、彼はいま夢を見ていると思う。みな夢遊病者だ。彼らも彼女たちも、そしてあなたも。夢の中で動いている。上手いか下手か。でも実生活がるというが、それは夢だ。それなのに、さらに人は夢を見ようとしている。

たとえば、人は美術館に足を運ぶ。音楽を聴く。ひとは、芸術作品に何らかの意味を見出そうとする。何の意味を見いだせない自分を情けなく思う。バカバカしいことだ。そもそも絵画にも音楽にも意味などというものはない。意味が解るという人は、とんでもない勘違いをしているお目出たき人だ。

だから内心じくじたる思いをしている人は、あまりにも閉鎖的であり、そのため正直でない。芸術作品にはだまって向き合えばよいのだ。そこには、何の意味もない、色の塊やら音の交錯があるではないか。

自然も同じだ。なんの意味もない。動物も植物も。だから〈それ〉であり〈これ〉でしかない。この世のあらゆる事物は・・・。事物というのは、なにかわれわれの認識の限界を指す言葉のようだ。おっと人間も。何の意味もなく、この世に突然放り出されたのである、だれでも。そして自分でさえも。ただ、自分だけには〈そう考えている意識〉がある。だから、〈この考える〉が自分だ、と17世紀の有名な哲学者は言った。

しかし、この意識は、私がうっとおしく感じている諸〈存在〉からは、余計なものである。この余計者の意識は、なぜか、わたしが食べたり、寝たり、歩いたり、場合によっては、仕事をしたりする間も、余計者として在る。いわば〈非在の存在〉だ。このどうしようもない情況、これはときに苦しみになる。

 目の前に春の空が広がっている。うっすらと霞がかっているところもある。目を凝らしていると、小さく見える飛行機がゆっくりと動いている。あの小さな箱の中に百人の人が乗っているに違いない、そしてその中の幾人かは、ちょうど今こちらを眺めているのだろうと考えた。

飛行機の垂直尾翼と思われるあたりに、一瞬、太陽が反射して光った。そのとき、自分が〈余計者である存在〉であることを反芻していた私の心に、稲妻のように悲しみが走った。・・・

あるいはまたこう書いてもいい。

夕闇が落ちた。川の両岸にちらほらと灯りがともる。川面はまだわずかに残っている空の明かりを憂鬱そうに映している。なま暖かい風がかすかに頬をなでた。その感覚が私を、自分が世界のそして歴史の外にいると感じさせた。

あの黒々とした川縁の茂み。向こう岸の公園の木々の塊。その〈存在〉は溶けて広がり、私は吐き気を催す。私は倒れるまいとして、それらから目をそらす。いつしか私は早足で明るい街のほうに向かって歩いていた。

うす暗い蛍光灯に照らされた古い婦人洋装店の前を通りかかった。人はだれもいなかった。何着かの地味な色の服がつりさげられているのが見えた。あれも〈存在〉なのだ。しかし、その存在は、なにか〈非在〉ともいうべきものとの関係において、存在であるように感じた。そのときである、突然胸をえぐるような悲しみが走ったのは。

        *

こんな意識は、いつでもどこでもある。仰々しく存在恐怖症というまでもない。ごく日常的な意識だ。ただ、それを言葉にしようと思うと、じつに大変な作業だ。えんえんと繰り返されるシジフォスの石積みのように、ついには徒労に終わる、それこそ何の意味もない。結論がでた。

     

     にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村
  
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

No title

hahaha,umama01さんにとって、酒中に意味ありでしょう。人はつねに何物かに酔っているべきでしょうね。酔いがさめたら、無意味が襲ってくる。
自分(個人)をはなれて種族などという大きな単位を思うと、その生きる意味はやはりないとしか言いようがありません。そのレヴェルの形式を自分個人にあてはめるてしまうと『嘔吐』の主人公のようになってしまう・・・。

No title

 人生とは、意味のないところに意味を見い出すことで、価値を創造する道のりのことじゃないでしょうか?
 死は全ての終わりで全てを無価値とするならば、生きる意味など見い出すことも出来ないのが現実で。
 それでも生きようとするからこその、諧謔。
 それこそが、生きる意味だと(結構、酔ってます。。。)

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー) URL

プロフィール

うたのすけ

Author:うたのすけ
世の中の人は何とも岩清水
澄み濁るをば神ぞ知るらん

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。